高山れおなの『ウルトラ』

高山れおなの句集を買ってみようかな、評判良いし、とか思い、結局新しいのではなくて第一句集をネットで予約してたのだけど、定価よりちょっと高いくらいで購入して、先月には届いていたものを、今日読み終えた。

高山れおな氏の名前は、ロフトプラスワンでのトークショーで正岡豊さんが話題にしていて初めて知って名前そのものの姿だけでなく正岡さんが添えた紹介の挿話も印象深くすぐにその名前を覚えた。

それで、高山れおなの第一句集は『ウルトラ』という題で、この書名を見たときに、ウルトラマンのことをイメージした。

ポップなタイトルだなあと思ったりした。

そうしたらあとがきには

集名とするにあたって特に念頭にあったのは、フランス王政復古期の極右反動の一派”超王党派(ウルトラ)”

と書いてあった。

でも、句集の中には仮面ライダーも出てくるし、

菊の香や眉間よりビーム出そうなり

という句もあるくらいで、ウルトラマンのことが念頭に無かったというわけでもないだろう。


そうだとしても「特に念頭にあった」という言い方には嘘はないし、それを韜晦というのも言いすぎかもしれないけど、なんか、そういう教養を示しつつポップさを余白に示すというかなんというか、そういう姿勢がなんか磨かれた「俳諧」の感覚というもののような気がしたりしなかったり。


バットマンがゲイカルチャーに重なり合うという話もあるわけだけれど、そういうこととは別にしても、特撮ものというのは幼児に対してもセクシュアルなものを喚起するところがあって、中島梓もそんなことを書いていたような気がしないでもないけれど、大槻ケンヂが友達の話としてウルトラマンを見て性的な興奮を覚えたみたいな話をしていた気もするし(あのコスチュームがボンデージていうかね)、仮面ライダーのシリーズのどれかで、主人公が悪の結社につかまって「改造」されてしまうシーンで性的な興奮を覚えていたという記憶が私にもある。


いろいろそういうところから語っておくべきことはいろいろあるような気もするんだけど、「ウルトラ」という題名には、俳諧の正統に徹すればウルトラマンだって俳句の題材となって当然なのだというクリアな方法意識がそれとなく示されている気もする。


高山れおなという名前ははじめて知ってから気になってはいて、『未定』の富沢赤黄男特集で河東碧梧桐の書がすばらしく、碧梧桐の方が俳句の極北を切り開いているだか迷い込んでいるだかしてすごいみたいなことを書いているのを読んだり、『俳句研究』の座談会で高柳重信に関して非常に的確な批評をしているのを目にして、こういう怜悧な人にはまったくかなわないなと思った(高柳重信熱みたいなものがいったん醒めたというか、冷静な距離が取れるようになったというか、そんな感じ)。


俳句をある程度自覚的に読み始めたのは高柳重信全集を読み通して以来なのだけど、いまだに俳句というのは読み方がわからないところがある。


偶然私は小林恭二の句集も持っているのだけど、どこか高山れおなとの同時代性というか、つながる部分があるかもしれないような気がして、でも、高山れおなの方がなんというかうかがい知れない感じがする。


それでも、やっぱり、高柳重信という人の「亜流意識」のことさらな表白に同調してしまう自分があるし、高山れおなという人は、遠巻きにかなわないなあと思ってみているだけのような気もする。

(2008年7月30日 mixiより転載)