図書館の廃墟で響く声 PortB『荒地』

PortBの『荒地−演劇的インスタレーション』と題した催しを見に行った。移転が終わって取り残された旧豊島区中央図書館の「廃墟」の中で、戦後派の現代詩を朗読した音声や、戦争をめぐる証言のインタビュー音声をスピーカーから流すという一種のイベントだ。
廃墟の図書館に声が響く、Port Bの新作公演は演劇的インスタレーション『荒地』 - 舞台・演劇ニュース : CINRA.NET

PortBは、劇場での演劇作品のほか、はとバスに乗って東京オリンピックの記憶をたどるツアー的上演などを手がけている演劇グループで、今回の催しも『サンシャイン62』という、戦犯が収容された「巣鴨プリズン」の跡地に「サンシャイン60」ビルが建ったことにちなんで戦後史の跡を訪ねるツアー・パフォーマンスの取材結果を生かして再構成したものになっているようだ。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080315/22149
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sugamopurizunn.htm
巣鴨拘置所 - Wikipedia



会場は、既に移転作業が終わって放置された状態の図書館の中で、3フロアにわたって書架や閲覧室の机、階段の一角、戸棚が除かれたあとに積もった厚いホコリも残されたままの事務室や宿直室などにポータブルなスピーカーとICレコーダーが配置されていて、詩の朗読や、インタビュー音声が流れている。

かつて朗読テープの吹き込みなどに使われていたらしい録音ブースのような区切られた狭い部屋では、残された机に設置された再生装置を前にして、椅子に座ってひとりで再生される声に耳を傾けることもできる。

空っぽになった書架が何列も並ぶ部屋では、いくつものスピーカーが同期されているようで、ばらばらに聞こえていた何人もの声による切れ切れの詩の一節が、ふいに声をあわせた朗誦となって聞こえてきたりもする。戦争体験を色濃く反映した詩の数々が響く*1

荒地詩集 - Wikipedia

日曜日の午後、梅雨空の下、私が居る間すれ違った観客は若い女性二人だけだった*2。がらんとした図書館の廃墟に、引越しのあと取り壊しを待つだけで、取り残され遺棄された物が散らかっている。そこに再生機器だけが配置されている。あるいは、ブックエンドや文房具や古びた書類などが散らかされたままという風にして意図的に配置されていたようだけれど、それも取り残されたものを取り残されたままに置きなおしたように見える。

誰もいなくなり本も移されたあとの図書館は戦後の復興の跡でもあって、公共施設として利用され公務が遂行されていた雰囲気を残している。活動を停止して、むき出しにされた建物や什器の中に、録音されて断片となった声と言葉が閑散として響く。説明は排されていて、文脈も与えられない中で、観客は誰の声ともわからない声に耳をすませることになる*3

取り残されたもののむきだしの「遺物的相貌」に直に向き合うこと、残された言葉に直に向き合うこと。行政の管轄の狭間にぽっかりと空いたむき出しの場所に単に音声を併置してみせることで、居合わせようとするものに、安易に理解したり、与えられた文脈の中で納得するのではなく、事実そのもの響きそのものに立ち会う姿勢を促す場所を可能にしている*4

そういう場が芸術という制度を活用する営みの継続によって可能となったと言うこと自体をまず評価しておきたい*5

中でも、無言館の館長へのインタビューが心に残った。自分でも意図しない仕方で、戦没画学生の作品が戦後史と重なる自分の生き様を照らし出すことになってしまったと語りつつ、今の世相の中で画学生の作品は「立ち往生」し「立ち腐れて」いるようだが、それはそれでこの時代に対するふさわしいあり方なのかも知れない、そういう作品と関わる経験の意味は、反戦というような単純な言葉では語れば見失われてしまう、という風なことをおっしゃっていて、印象深かった。


http://www.kk.iij4u.or.jp/~sjmatsu/mugonkan/mugonkan.html
http://homepage2.nifty.com/K-Ohno/a-map/Nagano/3616-MK-museum/02-MK.htm



PortBの舞台作品の映像があった。

Port B "Nietzsche" - YouTube

*1:タイトルは声に出されるが、作者名は会場の中ほど、旧貸し出しカウンターで配られているパンフレットに示されるのみだ。

*2:ただし、図書館と同じ建物にある集会所はまだ使われているらしく、何かの区民サークルの集まりに来ていたおばさんたちがにぎやかにしていることもあった

*3:パンフレットには、朗読をした人やインタビューを受けたひとの名前は記されているが、どの場所で流された声が誰なのかについての明示的な説明は無い。語られる内容から特定していくことはできるだろうし、知己であればわかるのだろうけれど。

*4:私は、デュラスが『インディア・ソング』の姉妹編として撮った映画のことをちょっと思い出したりもした。

*5:詩の朗読をどう考えるのか、戦後派の詩が戦争の証言と単に併置されることでそれをどう捉えれば良いのか、といったところで、いろいろ考えるべきことは残されているだろうとは思うが、今日はそこには立ち入らないことにする