『劇場の廊下で』

 戸井田道三の『劇場の廊下で』という本を読んだ。時代の転換点を印付けられた本。身についた知識と経験の裏打ちのある雑多な語りによって、読者に思考を促す、散文の理想を体現したようなコラム集*1

劇場の廊下で (1981年)

劇場の廊下で (1981年)

 同書は、あとがきによると、劇団民芸の公演パンフレットに書いた文を主に集めたもの。各種の新聞に寄せたコラムで関連するものを「つけたり」としてあわせて収録しているほか、「世阿弥から近松へ」という『岩波講座 文学』に寄せた文章を最後に収めている。
 新劇の公演に寄せて、能や歌舞伎や、世相や、民俗芸能について触れてゆくくさぐさの散文全体が、歴史を自分が生きている眺望から身体の奥の無意識の構造から捉えなおすというテーマに貫かれているともいえて、文学史の捉えなおしをテーマにしたといえる論文で全体が閉じられているのは、機会において書かれた書物全体とも照らしあっている。
 時代の制限と限界の中で書かれたとも言えるだろうが、そのこと自体がモザイクのようにして時代を照らし出す書物とも言える。以下、幾つかのテーマに沿って同書の内容を雑駁に紹介したい。

 世代差と時代の証言について 「明治生まれの老人」として、自分の生涯から見えてくる時代について証言を残しておこう、という趣旨の文章が散見される。戦前の舞台を見た思い出、築地小劇場の上演を見た話、観世寿夫の死に触れ、生前に交わした言葉のこと、戦前の銀座の町並みの思い出なども折々さしはさまれる。
 「幽霊について」という文章で、「1930年代にはいったばかりの不況のどん底」に、昭和通りの「味の素のビル」の時計台に幽霊が出るという噂が立ち、「新聞に出たら急に夜半の見物が増加して屋台の食い物やまでが出るさわぎになった」話をしている。「1945年に終わる戦争の直前のこと」だが、「のんきそうに見える幽霊騒ぎ」は、昭和史といった本にも書かれることは無い、誰も覚えていない話だ、としながら「ギセイになりつつある勤労者の怨念を自分のものとして騒いでいたのだ」と語っている。
 『夜明け前』の舞台化作品を見た思い出が繰り返し想起され、藤村の生家を訪ねた話も出てくる。

藤村が『夜明け前』を発表し始めた昭和四年は世界恐慌の年で、四月十六日には日本共産党が大弾圧をうけた。(中略)以後左翼の運動は壊滅においこまれていった。しかしプロレタリア文学や演劇の活動はつづいており、雑誌『改造』や『中央公論』の編集者たちも自由主義的傾向からそれらを支持していた。その中で書かれていた『夜明け前』なのだ。若い世代の動きを見ながら、幕末明治の激動期を生きる若い父正樹をかえりみて歴史に対していたのであった。(p.275)

 この一冊は戸井田道三にとっての『夜明け前』のような昭和史の構想ノートでもあるようだ。

 戦争経験の継承について 戦後体験の風化、といった話題が繰り返される。朝日新聞が1978年の8月に連載したらしい「戦後生まれの八月」*2に載ったつかこうへいの「戦争することばかりに夢中になって、子孫にどのような戦争体験を残すのか、どのような戦後を準備してやるか、ということを怠りすぎた」のが「第二次世界大戦の失敗」だとする文章について

戦争に反対であることはわかるのだが、反対しようにも反対する相手がふにゃふにゃでどうしようもないといっているような、子供がオモチャ屋のまえで、あぶないピストルを買いたいと母親にせびってダダをこねているような、そんなスタイルの文章である。しかも、そんないいかたが、子供のアマッタレだと百も承知といった利口さがあって、どこからどこまでが冗談かわからない。まじめに応接しようとしてもそっぽを向かれるにきまっている感じで、口をつぐむよりしかたがない。(p.180)

と留保を重ねながらも嫌悪をあらわしているのが印象深い。アングラとか新劇以降の演劇についてはほとんど言及していないが、これが唯一の言及だった。

 道化論 『枕草子』や『源氏物語』ほか古典文学について触れながら、道化的な役割の社会的機能を読み解いていく。民藝によるサルトル戯曲の上演について触れながら、東西の(宮廷の)道化について言及しつつ清少納言の「父親の清原元輔は人を笑わせるを役とする翁であった」から清少納言も「漢学の素養などをわざとひけらかし、つつしみぶかい人たちから笑われる役をひきうけていたらしく、私には思える。」と言っている。
 個人的には、西郷信綱が若い頃書いた清少納言*3が、階級闘争的な史観の下で、階級の狭間で惨めな自意識を抱えた人物として描きだしたものだったことが印象に残っていたので、それとは全く違う見方が示されているのが新鮮だった。
 他にも、ミラノ・ピッコロ座の上演を見られなかった話、水俣に行ったことに触れながら「私自身が何もわからずに水俣へいって、そこのいろいろな運動や、人々の思わくや、利害打算やらに引きまわされ、こずきまわされる道化役を演じる。そんなルポルタージュは書けないものだろうか。」と考える話など、道化についての思考が大きく流れている。山口昌男も含めて道化論の世界的流行というのもあったのだろうけど、そういう動向も遠巻きに見ながら、戸井田道三も喜劇に演劇の可能性を見ている。

 「近代的知」の相対化 中村雄二郎の『共通感覚論』に好意的に言及しているほか、『エピステーメー』誌に載った、観世寿夫と渡辺守章の対談についてふれたりする。山口昌男の『文化の両義性』に触れて、演劇は周縁に位置するもの、と語ったり、「コンピューターは忘れないから馬鹿だ」という遠山啓の言葉に触れて、間違えること・忘れることの人間としての特権を自覚しなければいけない」と述べたりする。『忘れの構造』が生み出された舞台裏はそんな感じだったのか、と思った。
 そうしたあたりに、民藝を支持するリベラル派で、唯物史観的な教養とも親しみながら、その制約にも十分自覚的であった良識ある知識人の限界が見えるなんて言ったら、後から生まれたものの見方として傲慢すぎるだろうか。

 基層文化論 岐阜県根尾村能郷の能を見に行ったり、沖縄の久高島にイザイホーの祭式を見に行った話などが書かれている。ある種の紀行文としても面白く、伝統的な祭式が生活の近代化の流れの中で観光化していることを見つめている。
 民俗芸能の中に演劇や文化の基層を見る一方で、根源的な象徴の解釈も試みる。水車の文様から回転というイメージを読み解き、廻り舞台や「舞い」の発生源を探ったり、水や蝶などの象徴を読み解いてみせる。象徴の発生を、メルロ=ポンティの「幼児の対人関係」などを参照しながら、「子供心理の深層」へと探ってみたりもする。当然、丸山真男への言及もある。

 演劇論 そのような視点から、70年代後半の新劇が見られていたのだ、ということが僕にとっては逆に新鮮だった。新劇ってあまりちゃんと見てないし、木下順二の戯曲もちゃんと読んだことが無い。戸井田道三は『子午線の祀り』を、彼自身の歴史に対する姿勢、歴史の捉え方を捉え返す試みと、身体において響きあい通じ合うものとして、受け取っている。上演批評の一端が断片的に示されている。

子午線の祀り』がもつ舞台の重さは、参加した人々が個の肉体でありつつ群である思想としての身体を持ちえた歴史の重さにちがいない。(p.235)

ほか、演劇論として印象深い断章を以下に引く。

俳優は自分が学ぶにちがいないのだが、相互にしか学びえない。したがって演技は自分にあるのではなく劇団にあるとしないと、どこかおかしなことになるのである。(p.141)

演出家は舞台上のことだけではない。舞台が社会の存在である限り歴史の演出家でもあるのだ。(p.177)

 ついつい、新劇のあとアングラがあって小劇場ブームで現代口語演劇って単線的な現代演劇史を思い描いてしまいがちだけど、戸井田道三がその晩年に劇団民藝の舞台をどのように見ていたのかを『劇場の廊下で』に残された証言を読んで知ると、歴史の重層性の中に改めて演劇史をおきなおして見てみる必要があるのだなと思った。

*1:ちょっと褒めすぎた。2011年9月30日、訂正・追記

*2:中島梓・つかこうへい・津村喬長谷川和彦中上健次松本健一の六氏が戦後について書いていた。八月十五日から連載された」(同書p.179)

*3:『日本古代文学史』の初版