(-2)LDK の root in work

仕事場をあわてて抜け出して、この日見た公演について、ちょっとメモしようとおもった。

 客席と舞台とを区別しない空間になっている。普段上演がなされる空間と、普段客席となる雛壇とに、簡単にまたげるほどの木製の低い柵が単純な迷路のように張り巡らされていて、入場するときに、「歩き回ってみてください。でも、柵はまたがないで」と注意される。

 実際、柵の中が上演スペースというわけでもなく、パフォーマーは様々な場所を出入りするし、柵をまたいだりもする。

 劇場内を柵を跨がずに移動するのは、とても遠回りになる仕掛けになっていて、何人かの観客は上演開始前や、上演開始後にも、柵を跨いで移動することがあった。
 普段観客は、座っているとか、黙っているとか、携帯電話を鳴らさないとかというしかたで、舞台の成立に協力している。観客は、消極的な仕方であれ、常に舞台に参加している。この舞台では、普通の劇場とは別の仕方で、観客としての参加が問われていたのだった。

 柵をまたぐかどうか、ということが、観客としての役割をその場所でどのように果たすか、ということにかかわる問題として、観客に差し出されていたということだろう。

 パフォーマーだけでなく、観客(と思われる人物)の身振りや表情に目がひきつけられる。
 
 観客(と思われる人物)の身振りの芝居臭さに、芝居臭さに特有の感触を感じる。社会的現実というものは数々のわざとらしさによって織り成されていることが、逆に際立つみたいだ。

 そういう、わざとらしさのリアリティというものは、なかなか舞台化できないものだろうなあと考える。今回の舞台で、役者がもったいぶった演技をしているようなときも、逆に、そのもったいぶった質感が、きわめて生々しく感じられたりした。

 作為も含めての、そうした

 たいくつさ。


 観客が目に付くのと反対に、パフォーマーの行為のそれぞれは、とても散漫なものに見える。
 
 照明が暗くなると、雑然とした空間の中で、明かりに浮かび上がる部分だけが舞台となる。パフォーマーの行為の質は変わっていないのに、パフォーマンスがより輪郭の際立ったものとして浮かび上がってくる。

 多くのものを加える以上に、多くのものを引き算することによって舞台というものが成り立っているのだということを、あらためて実感する。