害獣芝居の『火學お七』を見た

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縁あってさそわれてD‐倉庫へ。

岸田理生作品が上演されるの見るの初めて。もとの戯曲を見ていないけど、多分、忠実に舞台化しているのだろうと思う。

ある種アングラ的な雰囲気のセノグラフィーであり衣装であり演出であり、舞台表象なんだけど、見ながらだんだん、なんともこの屈託の無いさわやかさは何だろうかと思い始めた。

原作戯曲の執筆年代が何年か知らないけど、もともとの「10年前」とか、アラカンとかゲーリー・クーパーとかって固有名詞や町内会って響きが持っていたのは、消費社会化によって消えていった、かつての「反近代」的な表象だったのだろうと思うのですよ。再開発によって消えていった路地とか地域共同体への郷愁とかでしょう。そういうものに、アイデンティティが揺らぐ不安とかが重ねられていって、消費社会の中で女性としての主体をどう立ち上げるのか、あるいは、女性性をどう引き受けるのか、受け流すのか、といったテーマでしょう。そこには、たとえば「淫売」とかって言葉がもっているような、重たい情念の世界が張り付いていたわけでしょう。

でも、害獣芝居の彼ら彼女らの言葉には、そういうひっかかりがぜんぜんなくて、朗らかに、声を出すのって楽しいみたいな感じで、するすると舞台が展開していくわけです。多分、知識としては戦後の高度成長以前の日本の風俗とか知らないわけではないのかもしれないけど、それが首から下には落ちてないという感じで、「淫売」とか「娼婦」とか言っても、只の音に過ぎなくて、そこにある種の悔恨とかはなにも滲まないわけで。

見終わって思ったんですけど、これは、よさこいソーランとかのチームがやっているようなパフォーマンスと質的には変わらないパフォーマンスなのでしょうね。多少趣味が違うだけのことで。内容にひっかかるところが一切なくて、様式があるだけで、とても健康なフィジカルフォーメーションであり、健康な掛け声があふれているのですから。

同じ調子で延々と集団モノローグ*1が続くわけですけど、客席とコミュニケーションしようという回路が一切ない。ただ、どこか客席の方に向かって声を発しているだけです。ただモノローグが重ねられていくというのは、原作戯曲の構造もそうなのかも知れないけど、ただ一方的に言葉を発しているだけではドラマは立ち上がらないし、客席からの様々な反応を受け止めたりとか、客席に多様な反応を引き起こしたりってことが無ければ、演劇としては豊かであるとはいえないと思うのだけど、この舞台では、パフォーマーが客席側に立って演技したりとかしたとしても、観客とのコミュニケーションが一切ないところで、額縁の中に収められた小奇麗な絵でしかないということなのだろう。

ただ、お七役の亀井伶奈さんの演技の質がとても面白く、最後はそれだけ見ていた。内容にひっかかることなく進む演技であることには変わりがないのだけど、内容に特に興味は無いってことにとても正直な希薄な質の演技が同じレベルで持続している様子には独特の質があって、ある意味とても上品なパフォーマンスとも言えて、あんな風に舞台に立っている人を他に見たことが無い。それぞれのジェスチャーとか、意識の集中が一点にあって、右手の動きが丁寧だと左手がすっかりおざなりだったりするのだけど、その意識の散漫さっていうのが、逆にとてもリラックスしているような感じで、良かった。こんな見事な、テンション低く安定した質を実現できるのはひとつの才能だと思うので、ぜひ、他の演出家の作品で見てみたい。というか、誰かチェックして他の舞台にぜひ起用してあげてください。

*1:卒業式の集団朗誦とかも集団モノローグの一種だよね。日本の演劇の病がそこにあるような気がする。