チェルフィッチュ『目的地』

私は、チェルフィッチュの舞台についてはいままでいろいろ長々と書いてきたのだけど、今回の『目的地』については、雑な感想しか持っていない。なんだか、「ふんふんなるほどそうきますか」と思いながら通り過ぎてしまった感じが残っている。

通り過ぎてしまったというのは、内容においても、形式においても、自分にとってなにか切実なものとして受け取ることができなかったというわけである。形式において、というのは、おおよそ、ある程度チェルフィッチュの手法を見慣れてしまったという程度のことに過ぎない。その慣れは、チェルフィッチュはいくつか新しいことをしていた、という風な問題意識として逆に浮かんでくる。はじめに、そんな風に通り過ぎてしまった者として、形式面の覚書を。

まず、セノグラフィー的に見ると、団地というか集合住宅の壁のような白く塗られた壁、そして、集合住宅というか団地の裏にある放置されているようなダンボール箱そして、集合住宅だか団地だかの裏にありそうな雰囲気で舞台を照らしていた蛍光灯の照明効果が注目される。

演技が位置する場面を再現するわけではなく、しかし、語りが展開されるイメージの背後に張り付いているような、一昔前にはやった用語をあえて使えば「原風景」的イメージ、それを造形しているかのような肌合いの舞台美術は、アゴラ劇場の壁の構造そのものを白く塗りこめただけのように見える。他の観客の感想を読むと、劇場の舞台袖のエレベーターから役者が出入りする様子が見える客席もあったようだ。こういう、アゴラ劇場という既存の場所を造形的に転換していく舞台美術のありかたは、まったく、チェルフィッチュの手法において身体や言語が素材として活用される仕方とパラレルではないか。

今までの作品では、もっとフラットな空間が用いられていたと思う。舞台美術を、単に再現的ではない仕方で、しかし具体的なイメージを喚起する空間として活用した点で、『目的地』は、チェルフィッチュの作品に新局面を開いていたと言えるはずだ*1。ここから語れることは山ほどあるはずだけれど、とりあえずその点を記憶にとどめておきたい。

男性の演者が女性役の言葉を語り始めるというのも、(少なくとも私が見ることができた限りでは)今までの作品ではあまりなされていなかった事柄かと思う。『マリファナの害について』は女性の演者一人で上演されるもので、そこですでに男の登場人物のセリフを女性演者が発話するということがあった。女性が男性の言葉を発すると、女性が男性の言葉を発しているのか、とナチュラルに受容できるのだけれど、男性が女性の言葉を発すると、いわゆるオネエ言葉として聞こえてしまって、何か独特の別の意味合いがそこに生じている感じにとらわれてしまう。これも、何かいろいろ論じようと思えばいくらでも論じられることがありそうかと思うけれど、そういう問題を抱いたということだけを記しておきたい。

猫が語り手になってしまったりもしていた。これは、性の入れ替わりということ以上にいろいろと考えてみるべき事柄がありそうだ。猫が語り手になってしまう、というところで、語られる内容そのものが、劇中に想定しうるある特定の現実に同定できない内容を語りが持つという構造が現れてくる。そして、さらに、幾人かの演者は猫っぽい仕草をしてみたりする。これも、演技の位相として、ほかの語りに伴うチェルフィッチュ独特の微細な動きの自発的誇張みたいな身振りの水準とどう舞台の上で併置され得ていたのか、いろいろ考えてみる材料がありそうだと思う。

こうしたいろいろ考えてみたい事柄は、括弧をあけたまま放置して、先にすすむ。

妻の浮気相手として夫が妄想している内容の上演としてナレーションで説明された上で演技されていた場面で登場する自転車の男のセリフだけれど、生まれてきた子供が戦争で死ぬかもしれないこんなご時世に子供を生むってこと自体を疑問に付すという内容で、いろいろな観客に強い反応を引き起こしているようだった。

そのモノローグはいろいろ論評できる所だけれど、いわば現実を総体的に把握しようとして現実から遠ざかるような言葉が嫉妬にまみれた妄想の(舞台の)中に据えられて、語りとしては幾重にも括弧入れされながら、上演としては再現的な直接性(つまり、わりとよくある普通の演劇のような臨場感)があって、観客にはなにやらその演技の身体運動的インパクトも含めて夫の存在よりも印象深いものとしてダイレクトに響いたということは、とても面白いことかと思う。

私としては、妄想の中の妄想みたいにして舞台に上演されてしまう、たかだか上演可能な限りでの現実の一面が、妄想の中の妄想として舞台上に提示されていること自体に、ある種の批評性が働いている、という構造として、このパートを受容したいと思う。

舞台上の現実は、妄想の舞台よりもむしろ、錯綜した語りのもつれの側にある。現実を総体として捉えようとする語りをむしろ相対化する妄想への横滑りをいくつも抱えたゆれうごく語りのほうが、現実の位相に近いものとして語るという舞台上の現実が舞台という現実と隣接するようになっている。

そうしたもつれのフォルムのなかに巻き込まれていくということの感触にこそ、むしろ現実感覚を捉えなおす鍵があるはずで、そうした視覚から、あらためて、現実を総体としてとらえようとする思考の志向を計らなければならないはずなのだった*2

一応念のため、確認しておくけれど、この舞台の冒頭の、イス君のエピソードも、結婚を考えていない交際相手の彼女から妊娠を告げられる(無責任な)若者、といった(風に解釈されることを計算されているに違いない)場面を展開していたりもして、のっけからこの『目的地』という作品のテーマの中心は「子供ができる」ということにどう対応するか、ということだった。

ここで、きわめて個人的なことを書いておくと、『労苦の終わり』は私にとっては個人的にきわめて切実なテーマとして受け取らざるを得ないもので、それは共同生活がテーマだったからにほかならず、それはあのとき一緒に見に行った同居相手にとってもそうだったようだ。

『目的地』を切実に受け取れなかったのは、私自身が、子供ができてしまうということを私の現実から遠いなにかとしておきたいという姿勢をとっているからかもしれず、そういう個人的事情もあるので、『目的地』を素通りしてしまったということ自体は、私にとっては、切実さをまったく感じられないという意味で極めて切実な問題なのかもしれなかった。まったく危機感を喚起しないことが危機的な何かなのに違いない。

さて、猫が語り手になってしまったり、妄想の場面が展開していったりと、舞台を進行させるさまざまな語りは、ひとつの現実に収束しない仕方でゆるやかに結び合わされているという風で、そこにさらに、スクリーンに映写される文字が語っていく横浜近郊のニュータウンについての現代史的叙述が重ねあわされていくわけだった。

たぶん、このさまざまな語りの重層のなかに、常にあらゆる可能性があふれていて、常にひとつの可能性しか選ばれない現在の現実というものの構造が、舞台として造形されているということになるのだと思う。そして、そういう点では『労苦の終わり』末尾での夢のエピソードの位相を、舞台を牽引する語りの主要な部分にまで拡大してみせたのが『目的地』だった、と言っても良いのかもしれない。

さて、今までずっと『目的地』というタイトルは、明快なようで不可解だなあと思ってきたのだけれど、「労苦の『終わり』」というタイトルが示唆するような「終わり」は、あの作品の中になかったように、いや、終わりかと思えたものが終わりではないということが作品の内容としてむしろ示されていた、というようなことが、『目的地』の場合にも言えるのだとすれば、目的かと思えたものが決して目的ではないというようなことが、作品のテーマの枢要なのかもしれないという思いが、こうして書きながら、浮かんできた。

いや、これは作品へと向かう端緒のスケッチのようなもので、子供を生むということは何の目的でもないと、この作品は語ろうとしている、とまで言い切ってしまったら、それはそれで誤りなのだろうと思う。


もうすでに、『目的地』に興味を持つであろう人にとっても長すぎる文章になってしまったかもしれないので、このあたりでこの文章を閉じよう。いくつかの論点を、もう一度取り上げる機会があればよいと思う。TV放映のときにでも。

*1:タイニイアリス版『三日三晩そして百年』の舞台美術は、抽象度においては『目的地』と同じ位相にあるようだが、ある部屋を指し示すものだった点で、まったく別物だということになるかと思う

*2:この点で、妄想の中の妄想ではない仕方で現実を総体的にとらえようとする言葉を位置づけることが、今のチェルフィッチュにはできていないのだ、という批判があってしかるべきだとも思う