『Dropping - by』で食べて遊んだ

PlayAwayへの出演が記憶に新しい河村美雪さんの作品『Dropping - by』を初日にみた。
サブタイトルは「触れられる以前に消える自由を持っている。」。
河村さんの作品を見るのははじめて。

予約すると、「パーティに参加するつもりで気軽にすごしてください」といった文面のメールが届いた。

うつくしい雪
http://utsukushiyuki.com/

劇場として使われている東大駒場キャンパスの黒い壁の大き目のホールで、複数のカメラで捉えた映像がデジタル加工されてライブで放映されていて、バーでは飲み物なども供されている。

まだ始まらないのかな、とぼんやりしていたら、急に耳元でハミングされておどろいた。そんな風にいろんな人に不意打ちするように声をかけている。という仕方で始まった。

席が決まっているわけでもなく、立っていてもいい。広い空間に散在する人々の誰が観客で誰がパフォーマーなのか区別もあいまいで、いろいろなところで同時多発的に即興的パフォーマンスが同時進行する。

はじまってわりとすぐに、イチゴのタルトみたいなケーキが供されて、おなかすいてたのでその列にならんだ。とてもおいしかった。ケーキ食べているひとが周りのひとから急に「おめでとー」と拍手されたり、一列に並んだパフォーマーがあれこれ思い付きみたいな質問を順番に投げかけては答えを待たずに去っていったりもする。

あるいは、パフォーマーが観客の誰かの脇に立って観客の振る舞いを真似し始めたりする。その隣にもう一人のパフォーマーがついて、その身振りの真似を伝言ゲームみたいにつなげていく列ができていったりする。それに気がついて、思い思いに身振りで遊ぶ観客もいる。

ジャグリングが始まることもあったし、急に女子高生(あんまり知らないけどほんとに女子高生タレントだったそうだ。)が入ってきて撮影会がはじまったりしたこともあった。

インタビューが始まって、女子学生風の共感覚者が数字に色や形のイメージがあるという話をはじめたりした。その話をすぐ後に伊東沙保さんが少し離れた場所でそっくり真似したので、台本があったのかなと思ったけど、共感覚者だったのはほんとみたいなツイッターのつぶやきが後でスクリーンに映し出されたので、実際に話されたことを伊東さんがその場で暗記してコピーしただけだったのかもしれない(そうだとすると伊東さんの演技を咀嚼する瞬発力がすごいって話だ)。

そんなこんながあって、最後は急に暗転したかと思うと、それまで抽象的なパターンみたいに加工して映像が流されていたスクリーンとは別に、入り口から見て突き当たりの奥の壁にUstreamで流されていた(リハーサル時の?)画像が再生されたり、本番前から関連してつぶやかれていたツイッターのログが放映されたりして、1時間ほどで終わった。

あと、音楽も、うるさくない感じの、アンビエントっぽいノイズ風音楽がライブで流されていて、それもいい雰囲気を出していた。

と、およそそんな感じのイベントだった。全体的に、嫌味ではなくコントロールされ構成された、趣味のいいイベントという風に思った。

参加してみて、ケーキもおいしかったし遊べて楽しかったのだけど、こういう感じのイベントには何度も立ち会ってきたよなと思った。アフタートークでは、困惑して質問してる人もいたし、ツイッターを見ると何か新鮮なものとして受け取ったひとも居たみたいだけど、この手のものに触れた経験が無かっただけの話だろう。すき好んで前衛っぽいイベントの類を渡り歩いてきたら、僕はこういうものへのリテラシーが高くなってしまっていたようだ。
客席が無い部屋で役者と観客が入り乱れてなされる演劇の類はいくらでもあるし*1、同時多発的に即興が行われるイベントというのも、毎年やってる定番のところでは「透視的情動」だとか、いろいろある。芸術の歴史を遡ると、ハプニングというのも今回の試みに近いものだろう*2

テンションが高くない、密度の高くない、ある種の相互作用が人々の間に起きては消えるような場を成り立たせること自体が作品だという発想自体は、いまやそれほど突飛でもなく独創的でもないだろう。
河村さんには河村さんの必然があって、参加していた人のいろいろのアイデアは、今までなされてきたほかの試みとは別の文脈から出てきてはいるのだろうけど、結果としては、演劇であったり、ダンスであったり、パフォーマンスアートだったり、そういった文脈から出てきた、同時多発的な自発的即興という試みと、参加した印象の面ではほとんど変わらない。

客席が固定されず、パフォーマーのすることは厳密には決まっていないが、いくつかのルールやタスクがあって、ゆるやかに即興がなされる、という条件で、人々の間に散発的に関係が生まれたり消えたりする状況に、ある種の特有の質感がある。やることはあれこれ違っても、なんで印象が似通ってしまうのか。ひょっとすると、互いに反応をうかがいあうような一瞬の隙みたいなものが連鎖して、注意が落ち着きどころを見失っているような状況が、特有の雰囲気を生み出すということかもしれない。
それは、雑踏を歩く人は、それぞれに様々で一度として同じことは無いのに、ある場所の雑踏の雰囲気にはたいてい何か共通のものが感じられるということと同じなのかもしれない。社会が集団的な条件においてみせる相貌というものがあるのだろう。

僕自身は、そういうある種退屈な時間の持続に触れることの固有の面白さは嫌いではないし、たまにそういう場に立ち会えるのはちょっとリフレッシュできる機会のような気もするので、こういうテンション低いけれど知的な読み解きを促すような即興的な空間が提示されるようなイベントは、もっとたくさん起こっていてもいいよなと思う。

ひょっとすると、そういうゆるい質感というものは、密度の高く練り上げられたものをテンション高く提示するようなギャラリーや劇場の時間経験に比べると、あまりにゆるすぎるために、人々を惹きつける性格が弱いというだけのことなのかもしれない。

*1:最近のものですぐ思い浮かぶところでは、岸井大輔さんがやってた「(-2)LDK」の公演とか、メガロシアターとか

*2:ポタライブも、観客自身の自発的なリアクションが作品を成り立たせるという点では、同じようなことを試みていたのだと言ってよい。ポタライブの場合は、観客が参加していることが前景化しない仕掛けになっている点が大きく違っているので、その点の相違をどう考えるのかは問題かもしれない