小堀夏世が見たい

Die platze で開催されている「パフォーマンスがみたい」の初日(19日)を見に行く。今回の注目は小堀夏世である。なぜ注目するかというと、Die platzeのフリーペーパーで足立智美氏が黒沢美香と並べて誉めていたからである。

小堀夏世の作品は、芸術家夫婦とそのこども達(小さな女の子と赤ちゃん)を舞台に乗せ、そこに一緒に居る、というものだった。夫婦は芸術家なので、芸術家っぽい事をしている。舞台に上がれると思うと、そういう事をしてしまうのである。女の子は、周りに家族が居るし、おそらく小堀夏世にもなついているので、楽しいようだ。女の子らしい事をしている。居心地が良いところに居ると、そういう事をしてしまうのである。ベビーカーに乗せられたままの赤ん坊は、赤ん坊らしい事をしている。どこに居たとしても、そういう事をしてしまうのである。

こういう場面で「子どもと動物にはかなわない」とか言うのは、とりあえずそれ以上考えないための言い訳にしかならないことが多いようだ。

では、小堀夏世は何をしていたのか?なにやら、パフォーマンスらしい事をしている、と言えば言える。こどもと遊んでいる風でもあり、妙な仕方で歩きながら、手をひらひらさせていたりもする。台の上に登ってみたり、屈んで股から顔をのぞかせたりする。特に脈絡も無く、擬音語であらわせば、舞台の上をぶらぶらしているのである。家族と一緒にいて、家族とは交わらない位置に居る。

開演前から、舞台の上には父と娘が居て空っぽのベビーカーが置かれている。マイクやラジカセがセットされていて、おもちゃのピアノなどもある。そのほか、細々としたものが、父親の周りにある。
娘がピアノを引いたりして、父が話しかけていたりする。そこに赤ん坊を抱いた母親が登場。詩の朗読を始める。女の情念を呪文のように低い声で読み上げるのである。父親は、バイオリンの弓で台所道具をこすって音を出したり、うなったり、フランス語で歌い出したりする。いかにもアングラな芸術家夫婦である。女の子は天真爛漫でいかにもかわいらしい。

その冒頭に小堀夏世がスーツとタイトスカートに黒縁眼鏡で登場する。いかにもオフィスの正装である。モノクロームの胎児の絵をでっぱったお腹の前に掲げて入ってくる。多少芝居がかった投げやりな口調で、家族の成員を、お父さんです、お母さんです、などなどと説明し、自分は未婚であって、太った下腹は妊婦に似ている、などとモノローグしたあと、胎児の絵が描かれたぺらぺらのA3ほどの大きさの紙を横半分に、丁寧に破ってしまう。そして、服を脱ぐと、黒くスパンコールのついた風な胸までのぴっちりした服と、ショーツのようなものだけの姿になる。服に値札のような赤い札がついている。これが導入部であった。

いかにも意味有り気ではあるが、この冒頭の部分をほとんどの観客は見ている間に忘れてしまうだろう。舞台の上に居る人たちは、それぞれそれらしいことをしているか、目立たないような事をしているだけだったのだから。

唯一目立つことと言えば、似非エスニック調のだぶだぶの服に着替えた父親が、カラオケにあわせて中森明菜の「ミ・アモーレ」を歌い出した場面だけだ。そこでは、それまでフラットだった照明も赤紫がかったピンクのような色に替わり、安っぽく派手なステージで、「うろ覚えの下手な歌のパフォーマンス」が展開されていた。その時も、子どもは子どもで、女詩人は女詩人で、乳児は乳児でそれらしいことをしていたことを思えば、父親兼芸術家も、いかにもそれらしいことをしていただけなのである。問題は、それでは小堀夏世は何をしていたのか?である。

終演後「小堀夏世がやっているようなことは、実はかなりなバランス感覚を要するのではないか」と言ったところ、そばにいた足立氏と丹野賢一氏は即座に否定し、そんなのは関係ないと言われてしまった。僕は、自分の感覚と、言葉使いを訂正する必要に迫られた。

カラオケが始まるシーンだけは決めがあって、照明が一転するので、アフタートークの機会に誰が何を決めたのかを小堀夏世に問いかけてみた。カラオケは、芸術家がリハーサル中に思いついた事をそのまま採用しただけであり、照明はそこんとこだけ派手にして下さいとスタッフに頼んだということらしかった。

結局、この舞台の実現において小堀夏世が望んだことは、スタッフや共演者に、いかにもそれらしいことをやり続けることにあったらしい。舞台作家としてのバランス感覚というと、全ての要素や構成をまとまりよくデザインするセンス、ということになってしまうのだろう。そういう構成主体を舞台から読みとってしまったのは、僕の現場感覚の欠如がなせる業だったかもしれない。

足立氏が出演者として共演しながら小堀夏世を目撃した「透視的情動」という昨年末のイベントには僕もたまたま観客として立ち会っていた。集団即興パフォーマンス的なその舞台を黄色とオレンジのオーバーオールにウェストポーチという出で立ちでうろうろしていた時の小堀の舞台上の位置は、今回の作品でもまったく同じだった。今回は、その舞台設定を小堀自身が行っただけの違いである。小堀が舞台上でしていることのトーンは変わらない。

僕には、小堀夏世の独特な振る舞いについて積極的に語る事がためらわれる。それは、いかにも目立たないようでいて、比類ないものでもありそうな感じで、言われてみれば確かに他にないかも知れないが、言われなければ想起されないようなものなのだ。しかし、思い返してみると一種奇妙な感覚が確かに残っていたことに気づかされるような何かだ。

大体、駄目な作品というのは、余計な事をやりすぎている。それは、作品の効果に対する計算だったり、作品の体裁を整える取り繕いだったり、つまらない思いつきだったりする。そういう一切の余計なものが、小堀夏世の立ち居振る舞いには存在しない。立ち居振る舞いという言葉すら既に余計なものを含んでしまうくらいだ。しかし、あれがやらざるを得ない事としてあったのかどうかはわからない。

足立氏のダンス批評の仕事に触発されなければ、こんな風に小堀夏世に注目することも無かっただろうが、小堀夏世の舞台が「舞台を見る目」に対する一種の試金石のようなものであることは確かだろうと思われる。稀少さが価値を生み出すのではないとしても。

(初出「今日の注釈」/2010年3月15日改稿の上再掲)