dotsの公演『うつつなれ』について

8/7の昼の公演を見に行った。京都造形芸術大学のプロモーションが目的だったというわけだろう。学生劇団が先生たちのお膳立てで公演する運びになったんだろうなあと想像させる展開だったわけだけど(こういう感想は、http://d.hatena.ne.jp/mmmmmmmm/20040807に言う「勝手な先入観」の実例ということになるのかな)そのへん、八角聡仁氏の批評家としての見識が問われるんじゃないかと思った。身内の学生を薦めるチラシに「日本の舞台芸術の閉塞した状況に必ずや大きな刺激と緊張をもたらすだろう」なんて書くのはどうなのか。

作品の話。

センチメンタルなメロディに重低音のノイズ。デジタル編集されたスピード感あふれる断片的映像の奔流。映像や音楽は、見事にダムタイプのコピーだった。それに比べたときの身体表現の平板さやテクストの穏当さが逆に目立った。言語や身体を、メディアとして洗練させたり、素材として大胆に使ったりできるようになる、そのための習熟とか訓練がいかにむずかしいか、体系的な教育がそう簡単にはできないということを反映しているのだろうか、と考えたりする。

ダムタイプのコピー(しかも古橋悌二亡き後の)を見たがるひとはあんまりいないだろうなあ。

白い古着をたくさん並べた壁をスクリーンにしているのだけど、あんまり有効とは思えない。古着が大量にある、という事実から迫ってくるものがなにもない。映像が映ってしまえば古着がある事実は埋もれてしまうし、照明を当てると、ただの凹凸のある壁にしか見えない。物としての古着が触発する何かを作品に使いたいのだったら、もっと別の展開をしたほうが良かったのだろう。床に並べた方がまだしも何かを触発したんじゃないか。

しかし、作品のモチーフとして、大量に物があってもなにも訴えないという事実のネガティブさを提示したいという意図もあったのだろうか。だとすると、映像や音楽の洗練が逆効果だということになるだろう。

パフォーマーたちの、ゆっくりとした丁寧な動き(でも、単なる丁寧なゆっくりさというのは訓練をつまなくてもできるもの)が示すのは、回りの情景を見渡したり、なにか降り注ぐものを受け止めて捕らえようとしたりという、いかにも情緒的なもの。こういうのは、発想としてありがちなものじゃないかとおもう。空間構成的にも、四人のパフォーマーの立ち位置を均等に埋めるだけだった。

いろいろ手持ちの手法や発想を均整のとれたかたちにまとめる力量はあるのかもしれないけど、一点突破の狙い撃ちはできていない。手馴れてはいるけど、大胆さはどこにもない。