hmp『メディアマテリアル』と演劇崇拝◎自動焦点『ヘラクレス13』


hmpは近畿大の卒業生が作ったグループ、(HMPと大文字で書くと、西堂行人氏がやっていたミュラー研究会で別物である、ということになるらしい)。hmpは火曜に、自動焦点は水曜に見る。

hmpのメディアマテリアルは、テクストをほとんどそのまま上演したものだった。プロローグ的に、激しい息(苦痛や性行為を連想させる)や、咀嚼音などを響かせるシーンが追加されていたが(テクストに肉体的水準の注釈を行う演出ということか)、その後、第一景はメンバー全員が、デニム地で古代風=民族衣装風の衣装をまとって、テクストのそれぞれの断片を口にする。(傘がある種象徴的に用いられたりもする)。第二景では、メディアとイアソンの台詞がそのまま演技される。

意図的に言葉を変えていたところも少なくとも一つあり、カットされたのか、忘れられてしまったのか、抜かされた行もあったし、言い間違えした所もあったけれど、基本的には、行わけや一字開けなどまで忠実に従って言葉の区切り、抑揚が立ち上げられていた。
それが逆に、耳で聞いている側には、理解しにくい所もあった。
「船壁」という単語など、活字ならすぐに分かるが、耳で聞いてもなかなか判別できないだろう。そのあたり、翻訳を再検討する余地も大きいと思った。

はじめ天井につってあった赤い布が、途中でばっさりと落ちて、そこにパフォーマー達がもぐり込んで、不定形なものに還元されたかのような人物を演じてみたりもした。たとえば、メディアが「自分の過去を壊して・・・私の過去を終わりにしてしまう」といった下りでは、布の中にくるまったパフォーマーの首をしめる、といった仕方で、台詞から描かれる仮想の情景が象徴的に喚起されたりもする。

メディアの台詞は、イアソンに向けられるときには、脇に立っているイアソン役の役者に向けて、子供達に向けられている時には観客に、物思いに耽っている風な台詞は、余所を見るような演技とともに、口に出された。まるで、新劇=アングラ的な再現的演劇(というのも大雑把ですけどアングラテイストでも再現的という意味では新劇とかわらない小劇場演劇というのは山ほどあったと思うのだ)そのままという感じでもあり、アナクロな印象もあったが、それはそれで有効かもしれないと思う。ミュラーもまた、時代はずれでしかありえない所に演劇の可能性があるといった風なことを言ってはいなかったか。

少なくとも、役に入り込んだ女優の演技は、つたない面もあったとは言え、真に迫る(という月並みな表現が許されている範囲で)ものがあり、その限りで、喚起的でありえていた(単純にいえば、私には、それなりに心打たれるものがあった)。

さて、メディアの台詞は、想念に流されて、語りの場からメディアが去って行き、テキストの描く荒野の中にさまよってしまうように構成されている(訳注にもそのような示唆がある)そこを、メディア役の女優が舞台前面のはじめの立ち位置から舞台奥の赤布へと移動し、赤布にまみれたパフォーマーを虐げる演技をして、そして暗転、メディア自らカンテラを拾い上げて点灯し、その明かりで最後の下りを読む・・・という仕方で演出したのは、戯曲の構造を視覚的展開に忠実に具現化させたもの、とも言えるだろう。

第三景では、パフォーマー達は、自分の普段着にもどり、赤布の先端を頭の上にまといながら、舞台前列に横に並び、それぞれのポーズをとって、台詞を朗唱してゆく。(赤布のなかに収まっていたパフォーマーたちが、赤布の中から現れた時、観客はそのことに気付く、というわけだが。)その、ポーズのつけかたがいかにももったいぶっていて余計な気もした。日常とテクストとの間の落差を際だたせつつ、自分の身にテクストを引き受けようという姿勢を示唆するのだったら、そこで、普段着が演劇の素材として取り入れられてしまうのではなく、普段着の素材性が舞台の素材性を暴露する風に演出するべきではなかったか。そのためには、半端な様式性など捨て去った方が良かったように思う。

そして、最後には、赤い布を幕のようにして客席の上を覆いつくし、幕を手に持って掲げたパフォーマー達が台詞を述べてゆく。観客は、天幕のように客席を囲う赤布の中で、テクストを聞くことになる。この演出は、客席をまるごとテクストの想像的な空間のなかに包んでしまおうという意図だろうか。血のイメージで観客を包んでしまうというのは、手法としては素朴かもしれないが、テクストの視覚化という意味では、有効だと思った。いや、聞く経験そのものの内容に、観客の視覚的身体が包まれてしまう、というような、ある種退行的な弁証法的プロセスが働いたあとに、パフォーマー達が客席の背後に去ってゆき、赤い布も視界から消え去ると、残されるのは裸の舞台なのである。想像的なものから、裸の舞台への断絶と接続。見事な計算と言うべきだろう。


翌日。
自動焦点の舞台は、結局小細工を弄しているだけであり、がっかりした。

元となるテクストは、エウリピデスの『ヘラクレス』から、12の仕事を終えたあとのヘラクレスが狂って自分の子供を殺してしまう場面を語り手が報告しているところを抜粋して、ミュラー自身が翻訳したものということ。

自動焦点の演出では、語り手と、語られる場面を分裂させていて、ミュラーのテクストを朗読する語り手と、そこに描かれる場面を演じる役者たちの場面が並列されて上演される。

前半では、語り手が、途中で自分が語るテクストを忘れてしまったり、途中で中断してしまったりする。そのたびに、あれ、とか、何だったけ、といった演技がさしはさまれる。いかにもわざとらしい。

そして、語り手は、ヘラクレスが発狂する直前で語ることをやめてしまう。ヘラクレスの仕事は12で終わっているのです。元テクストの内容が納得できないから、先を続けないというのである。ヘラクレスの両の手があるから、間違いがおこったのだ、うんぬん、といった、元テクストにはない文言が付け加えられている。殺人を犯したりするのは、技術や力があるせいだ、それがいけないのだ、といったところだろうか。こういう処理は問題の矮小化ではないか。

ライオネル・エイベルの『メタシアター』において語られていたような、ギリシャ的な悲劇の根底にある、世界の徹底した無情さの認識を、西欧は理解しなかった、ゆえに、悲劇は不可能であり、メタシアターだけが可能性として残されていたのだ、といった議論がそのままあてはまってしまっている、ということか。それにしても、エイベルの議論から何年が経っているかを思うと、この舞台がどれほど後退したものかが思いやられるというものだ。

自動焦点の舞台は、ヘラクレスが発狂する、という事を、その不幸のあり方を、ある種低俗なロマンティシズムの内に還元してしまったように見受けられる。(ミュラーが19世紀的なオペラを低俗と呼んではばからない意味で・・・)音楽の効果音的な使い方にしてもしかり。

語り手が退いた時点から、語られている内容であったヘラクレスの発狂と虐殺の場面が上演されてゆくことになる。確かに、巧みな場面の転換が、映像的かつスピーディーにスペクタクルを展開してゆくのだが、ヘラクレスが一人一人の子供を殺してゆく場面を、暗転を繰り返しながらフラッシュバックのように見せてゆくという演出は、演劇の可能性という観点から見れば、映像的なものの模倣という水準に後退するものでしかないだろう。演技の力を、照明などの効果でごまかしているだけだ、と思われた。この程度のスペクタクルを見るのに2000円以上払うのなら、もっと資本が投下された映画を見たほうが安くつく、と思われても仕方がないだろう。

ヘラクレスが縛られ、苦悶している所を前に(いかにも大げさな演技!)、語り手が戻ってきて、テクストの朗誦を再開する。切迫した調子で、大仰に、あちこちに歩き回りながら。その途中で、再現舞台をしていた役者達は退場しはじめる。語り手の語りは続いているが、「公演は終了です」というアナウンスがなされる。それで帰り始める客もいたが、テクストは、まだ続いていて、おおかたの客はのこっていた。テクストが終わりにいたると、また冒頭にもどって語りが繰り返される。そして、もう一度「公演は終わりました」というアナウンスがなされ、だいたいの客は帰ってしまった。

こういう所に、上演行為自体の虚構性、そしてテキストの無窮性、などなどが重ね合わされる「メタシアター」的な意図があるというわけだろう。しかし、仕掛けとしては、あまりに、あまりに、単純で、子供だましと言うべきではないか。

一人で客席に残っていた僕は、語り手の女優(決して演技がうまいというわけではない)が語りを繰り返す様子を見ていた。

繰り返しの中で、テクストの意味は希薄化してゆき、女優の大げさな演技も、大げささの表層だけが浮かび上がり、疲労の中で、音声の物質性があらわにされてゆく。この際限ない繰り返しだけを、2時間なり3時間なり見届けることの方が、小細工を見せられるよりも豊かな演劇的経験になるのではないか、なんて事を考えていると、その場から立ち去りがたくなった。

「公演がおわりました」というアナウンスは、困った客がいるから追い出さないと、という風になってきて、アナウンスの声を発する複数の人物のたつ場所が、だんだん僕のそばに近寄ってくるようになる。最後には「次の公演がせまっているので」といわれて、追い出されて帰ってきた。


hmpも自動焦点も、ミュラーギリシャ悲劇ものを扱っていたわけだが、ミュラーがヨーロッパでギリシャ悲劇を改作したり引用したりするときには、日本においてと違う意味あいがあったはずで、そういうことを考えると、日本とヨーロッパの演劇的状況の違いみたいなものを抜きにして、ミュラーフェスティバルの中で、ミュラーギリシャ物を上演することにどういう意味があるのだろうか、と考えずにはいられなかった。

ギリシャ的韻文をドイツ語的韻文に変換すること・・・翻訳家であり詩人であるミュラーが取り組んだことが、日本語に訳される時点で、ほとんど無化されてしまう。その無化とどのように格闘するのか、日本的韻文が、翻訳劇の短い(しかし十分に古びてしまっている)伝統のなかで、無化されてきた歴史と、どのように批判的に対峙できるのか、そこにこそ、ミュラーと取りくむ意義があると思われるのだが・・・。たとえば、漢字という文化が、日本的な翻訳劇と、そして、韻文的なものの欠如において、表音文字文化の韻文と、どのように別の条件をもたらしているのかについて考察すること・・・・。

結局、hmpのものも、自動焦点のものも、それぞれに視覚的な喚起力を狙った舞台であったわけだが、活字で翻訳を読んだときの視覚的喚起力を超えるものではなかった。

そこで、活字的な喚起力が舞台の作り手をいかに喚起したのか、という問題もあるわけだが・・・活字化された翻訳テクストが、舞台よりも喚起力を持っているならば、舞台の意義はなくなってしまうわけで・・・『舞台芸術』誌に載っていたサイードのインタビューで、ベケットの作品は活字として完成されていて、あえて上演される必要もない、ということを述べていたが、そういう基礎中の基礎からの考察がなされなければ、ミュラーのテクストを上演する試みがいかに重ねようが、日本の演劇のあり方が揺さぶられると言うことはないだろう、と思われる。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)