佐藤ペチカ×菊地びよ/相良ゆみ 雑感

東京バビロン ダンスセレクション『ポンペイの落書き#03/FINAL』の公演を見に「pit 北/区域」に行った。
http://www.h7.dion.ne.jp/~babylon/black_24.htm
佐藤ペチカさんのダンスを久しぶりに見てみようかと思ったのと、相良ゆみさんは春にディープラッツでソロを見て、気にいっていたので、出かけてみるのに十分なプログラムだと感じた。

佐藤ペチカさんは、10年以上前、NEXTダンスフェスティバルの公演がいまでも印象深い。ものすごく高い三脚のうえに立った姿とか、たくさん大型のガスボンベが転がってきた場面だとか、忘れがたいものがある。ディープラッツで5年ばかり前?に見たソロも良かった。アウトラウンジで音楽と自作のファンタジーみたいなテクストをベースにした公演(ダンスではなかった)を見たのも、作家としての意外な一面を見たようで興味深かった*1。特別、追いかけてみているつもりはないのだけど、なんとなく名前をみると懐かしいと思って出かける。

こうして書いてみて、ダンスを見る、ということの大きな部分として、その人が舞台に立っている様子を見る、ということが含まれているのだな、と思う。

身体を見るのでもなく、身体の運動を見るのでもなく、その人が居る、その居方を見る、という面が、ダンスにおいても、その享受と切り離せない仕方で、結びついているのではないだろうか*2

佐藤ペチカ×菊池びよ『愛しい方へ』

ということで、佐藤ペチカさん菊池びよさんのデュオ作品『愛しい方へ』なのだけど、菊池びよさんのダンスを見たことは無かったと思う。少なくとも自分がこの名前を意識してみたことは無い。

二人とも、泥にまみれたような、すこし古風な柄のワンピースを着て、登場する。初め、壁にはりついて、壁から離れないで、いくつかのポーズをとりながら移動する、ということをしている。やがて、お互いを壁から引き離したりする。最後、お互いに絡み合って床に倒れ、その二人の折り重なりが、腕を絡ませた奇妙なポーズを作るような場面を繰り返す。

完全暗転のあと、二階席の部分によじのぼったり、公演の開催に誰かを招待するという趣旨の手紙を読んだりするシアトリカルな展開もあって、終わった。

ダンスのキャリアは全然違う二人がであって10年後に始めて共作共演したということらしいのだけど、二人の舞台の立ち方がとても同質なものに見えた。衣装などで虚構的にキャラクターを作っているということも大きいのだろう。

たとえば手塚×神村の共同作業がダンスのコアなファン層を超えて注目されていることに比べて、こうしたひっそりとした共同作業がどういう意義を持っているのだろうか、というようなことをついつい考えてしまった。いや、私は手塚夏子さんも神村恵さんも見たことはあるけど、二人の共同作業はまだ見ていなくて噂を聞いているだけなのだけど。

ダンス公演を立ち上げるある種コンベンショナルな何かの範囲に収まっているか、そうではないか、という違いは大きいのだろう。

ある種の芸術家的なコミュニケーションの成果として、ある像が舞台に示される、そのこと自体に大きな違いはないのだろうけど、コミュニケーションのプロセスがどう示されるのかに本質的な違いがあり、コミュニケーションの結果だけが切り出されて決まった像として示される類の上演行為が、決定的に、一般の関心を失いつつあるとは言えるのかもしれない。

作家が公演を繰り返してきたという物語を背景にして、たとえば佐藤ペチカさんが舞台に立っている様子を見てみようと私も思うわけだが、物語的虚構が公演自体を枠付けているというそのことが、舞台に立っているたち方を逆に遠ざけてしまっているようにも思えた。難しいことだけど。

相良ゆみ『葦(reed)』

音楽にアルヴォ・ペルトを使ったりした、ある種エモーショナルなドラマを展開するソロ作品だった。
相良ゆみさんのダンスは、ポーズのユニークさと美しさに魅力があると思う。今回は、ドラマ的な展開が甘すぎる気がして、いまひとつという気がした。
難しいことだけど。

*1:そのときのことはここに書いていた→2006-04-22 - 白鳥のめがね

*2:「零度の身体」とかいう言葉が、その逆の事柄を示唆しているのかもしれないけれど、たとえ社会的意味作用を限りなく中性にしていくことができるとしても、そこに、生きている人が居る以上、その人が居るということが消えてしまうということはないだろう