『すご、くない』

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4月30日のマチネに鑑賞。その日はでぶ学を見るのはやめて2009-04-30 - 白鳥のめがねの記事を書き、ディープラッツまでポタライブを見て、蜻蛉玉の公演を見た。

今回の「キレなかった14才りたーんず」は、6人の演出家によるフェスティバル、と言われていた。必ずしも演劇祭であるとは言われていないようだが、『すご、くない』はダンスであるだけでなくある種の劇であると考えるべきだ。

実際、『すご、くない』は、白神ももこによる「振付・構成・演出」とクレジットされている。だから、単なるダンス(振付)ではなくダンスシアター(振付と演出による構成)と言うべき作品だ*1

それは、単純に作中で言葉が使われていたから「ダンスシアター」である、というわけではない。
演劇が何かの場面や情景を表象したり、たとえばクラシックバレエが物語を軸にするように、あるいは感情を表していたりするように、ある種のダンスも何かを表象したりすることがある。
そのような仕方では何かを表象しないのが「ダンスシアター」である。
成功したダンスシアターは、単なるダンスと演劇の折衷ではない。

『すご、くない』の舞台に現れる5人の男性演者と1人の女性演者は必ずしも何かの役を演じているというわけではない。

当日パンフレットでは、「一応、配役です。↓」として、それぞれの出演者に「少女」と「妖精*2」という役が割り振られていた。これは、ある種のファンタジーであるかのようだ。

けれど、この舞台のファンシーさを、単純に心象風景を表しているもの(表象)として解釈してしまうことは、作品が持っているさまざまな奇妙さを、たとえば作家の心象を表すイメージとして理解することでやりすごし、作品の構成が持っているそれ自体としての価値を見失うことになるだろう。

ここでは、舞台上の作品そのものをそれ自体として受け取るために、解釈しなければならないのは、むしろ作品の周囲に作家自身が配置した言葉の方だ。

自分でさえ14才の自分は思い出せないくらい。いてもいなくてもどっちでも良いふわふわした存在。そう、ポジティブに言えば妖精だった、ってことにして、、、ね。

作品の告知に寄せた文章でこのように言われている。つまり妖精という言葉は、14才のころの自分を思い出して再現するキャラクターを示すのではなく、「存在の仕方」を言い表している。作家の言葉がためらいがちなのは、妖精という比喩が誤解を招きかねないことがわかっているからだろう。作家は幾分かフィクショナルな粉飾を施して、作品の意図を伝えようとしているだけで、ここでのフィクションっぽい粉飾は、いわば、作家の照れとか韜晦のようなものなのだろう。

それぞれの出演者が舞台でしていることは、「いてもいなくてもどっちでも良い」ような仕方で、「ふわふわ存在する」ことそのものだ。

観客は、出演者たちが舞台に存在する仕方を見れば良い。出演者たちが舞台でしていることが、ふわふわ存在することなのであって、その存在の仕方が、何かを表象しているというわけではない。

こう言うと、『すご、くない』には、何かを表象していると理解すべき場面がある、と反論があるかもしれない。

たとえば、男性出演者の1人が倒れこみ、女性がそれを抱き起こすというアクションが繰り返されていると、それを真似するように、太った男性出演者(池田義太郎)が倒れこむ。倒れこみ抱き起こされるアクションをまるで自意識を欠いた自動人形のように繰り返していた二人は顔を見合わせてやめてしまう。まるで、「太っているから起こせないよ」と言っているように。

ここでは、身振りによる演技が、コミカルなシチュエーションを表していて、演技は認識の変化を表象しているのではないか?

確かにこれは、ある種のコントに近い場面とも言える。しかし、一般に人がコントを見て笑うのは、コントが何か舞台の外のシチュエーションを再現し表象していると受け取って、その再現された状況を笑っているわけではない。
コントは確かに表象ではあるのだが、観客は舞台上の芸人自体を見て笑うのだ。表象は舞台に一致してしまっていて、よりリアルであるとか、真に迫っているとか言うのが意味を成さない、それ自体としての表示になっている。解釈も舞台に一致してしまう。問題になるのは、テンポやリズム、間のようなものだ。それで笑えるか、笑えないかが決まる。

成功したダンスシアターでは、出演者はまるで自意識を欠いているように舞台に現れる。出演者の感情や意識は、行動そのものに一致しているように見える。太った男が寝そべってみたり、それを見てためらってみたりする様子が、何か別の場所であった物語を舞台に表しているのではなく、舞台上で演じられていること以外の何物でもないということが、ここでは重要なことだ。

身体の変化は意識の変化を表しているのではなく、身体の運動も意識の運動も、運動として舞台にある。それが身体の形において、向かい合ったりすれ違ったりする仕方において、あるいは言葉の形を取って向かい合ったりすれ違ったりする仕方において、ある種のドラマが造形されているとき、それはダンスシアターと呼ばれる。

ダンスシアターにおいては、身体運動自体の審美的な洗練は芸術的な達成の目標にはならない。それぞれの身体が隠し持っている動きのドラマの可能性を、どのような仕方で引き出すか、引き出された動きのドラマをどのように構成するのか、それが問題となる。

作品の冒頭で、演者の1人が客席に向かって「僕はすごくないので、すごい人の名乗りをします」と言って、舞台奥から手前に向かって歩いてきては「ジョン……レノンです」と言ってみたり「山田……太一です」などと言ってみたりする場面があった。
ここでも、前後の移動によって、客席との関係が変容すること、客席に対して名乗ってみせる仕方が、期待を満たしたりはぐらかしたりする、その舞台造形のドラマが動的に進行し、音楽のように構成されているからこそ、ダンスシアターとして成立していること、それが重要だ。
それはある種のナンセンスな詩のように、言葉の意味が表す何かを欠きながら、言葉の意味が何の含み持つものも無く表層的に演じている運動に観客が巻き込まれている、それ自体において「どっちでも良く存在」している。

この、「すごい人の名乗り」のシークエンスに合わせて、それぞれの人物が思い思いに舞台の上で簡単な身振りを繰り返していたりするのが作品の導入部になっているのだが、この名乗りのシークエンスが「友達がすごいんですよ」という語りに展開する場面がある。友達にあたる出演者が黙って客席に真向かいに居るのを指しながら、町で見かけた友達のなんてこと無い突飛な振る舞いとか言動とかを説明して、その微妙に常識はずれの様子が「すごい」と客席に語りはじめる*3

ここでは、「少女」がわけもなく前転したりしていたのが、息が荒くなって前転が途切れると、「名乗り」の男が語りを中断して、少女の背中を押すように勢いをつけて前転を再開させ、前転が再開すると、また客席の手前の語りの位置に戻って語りを再開するということを繰り返していた。

ここでも、語られる内容はどうでも良く、無意味では無いが退屈でも無いくらいの内容であることが重要で、観客の注意が一定のレベルで語りに引っ張られていく運動と、それが中断されること、語る男が語ろうとする意欲が語りの内容にぴったりと寄り添いながら、語りの内容の筋道とは関係なく、少女の運動の継続を優先していること、この全ての運動の関係が、意味も無く繰り広げられていて、力の拮抗する図式が変化するという点においてだけドラマとなっており、その展開が時間的な構成となっている点でダンスといえる、そのことが重要だ。この点では、演出的仕事と振付的仕事は一体のものだ。
その意味で、この作品は成功したダンスシアターであったと呼べる。

少女が寝そべった男たちの間を軽やかに飛び回るシーンが、一番いわゆる普通のダンスっぽい場面だった。この場面では、いわゆる振付の仕事が前面に出ていたかもしれない。しかし、この場面が素晴らしかったとすれば、作品全体の中のドラマ的運動の連続が集まって、花結びのように束ねられた一瞬としてあったからだろう。
寝そべった男性の身体たちが真上に手を上げてぶらぶらさせる運動の中に、ドラマ的ベクトルはいっせいに天井を目指して凪のように留まり、女の子が宿した未生のドラマ素の群れが跳ね回り舞い踊る肢体の形となっていた、みたいな*4

舞台上に、人物は、それぞれの身体が持っているキャラクター性そのままに現れている。スポーティであったり、太っていたり、女の子であったり、ひ弱そうであったり。そうした身体の特徴をキャラクター的に誇張して見せたところが『すご、くない』にはあり、その点が「演出」の作業に該当したのかもしれない。

成功したダンスシアターにおいては、出演者の人生の全てが身体から読み取られるようにして、出演者はその人自身として舞台に立つ。その射程から「身体の運動からドラマを引き出す」可能性が問われる。

『すご、くない』において、演出の過剰があった分それぞれの出演者は類型的なキャラクターに近いところで舞台に立たされていたかもしれない。

そうしたキャラクター性は、確かに、眼差しの社会的なあり方に対応している。しかし、体格や性別といった要素を、ゼロに近づけて見せることもまた、社会的な眼差しを再編したり無効化したりする、それ自体が社会的な意味づけの一様態でしかない操作を前提にする。

それを考慮に入れた上で、『すご、くない』は、それぞれの出演者の体格や身体のあり方そのものを、若干の誇張によって整えることで、むしろありのままに観客に提示しようとしていると言えるだろう。

舞台の上で、出演者たちは、何か他の現実やファンタジーを表すのではなく、社会的な意味づけが中断されるような仕方で運動し、生きている。そこには、表現の約束事によって虚構を立ち上げるような階層(レイヤー)の落差は生み出されていない。社会的な現実と地続きの、それぞれの出演者のそのときの身体が、別の仕方で生きている、そのことにおいて、現実そのものが、舞台造形へと変容し「どちらでも良い、ふわふわとした存在」としてある。

いわば、人はナンセンスにも生きられるということが示されている。つかの間であれ、そうした自由は、社会のあちらこちらにぽっかりと浮かんでいて、そこでは、「どちらかであれ」と決め付けようとする社会的な眼差しに縛られる必要はない。

そんな、ポジティブに言えば妖精として生きているような瞬間を示して見せること、それが、「キレない」という言葉が内にこめた問いを解きほぐすことになる。フェスティバルのテーマへの、それが、白神ももこの回答であった、といえるのだろう。

その意味で、このフェスティバルにおいて、ドラマ的造形に表象とは別の何が可能なのかを既存の演劇のイメージを超えて示しえている点を、まず評価すべきだろう。

また、ダンスシアターという西欧由来の様式/方法論を、気負い無く自らのものとしている点で、白神ももこは、先行するコンテンポラリーダンス振付家たちとは若干違った位置に居るとも思われる。

そのことは、また別に論じてみる余地がある。

http://www.theaterguide.co.jp/feature/kr14r/04.html

*1:ダンスシアターについては、たとえば次のような簡潔な説明がなされることがある。「ピナ・バウシュに代表される、ダンスと演劇との境界線を取り払った舞台芸術の様式。いわゆる純粋舞踊の部分は少なく、ダンサーが台詞をしゃべったり、日常的なしぐさを繰り返したりする。ドイツ語ではタンツテアター(Tanztheater)。モダン・ダンスの硬直を乗り越えようとするポストモダン現象の1つである。 ( 鈴木晶舞踊評論家 ) 出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2007」http://kotobank.jp/word/
成功したダンスシアターを代表するものとして、私もピナ・バウシュの作品を想定している。
浅田彰【タオルミナ、タオルミナ】
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0561.html
ピナ・バウシュの仕事が無ければ、白神ももこの今回の作品も無かっただろう。直接、間接の影響があるはずだ。
問題は、西欧のダンスシーンと日本のダンスシーンとの距離、そして、日本のダンス史との関わりをどう考えるか、という点にある。10年前とは別の光景が広がっていることを白神ももこの作品は示しているように思う。白神の世代からは、日本のダンス史の蓄積も、西欧のダンスの展開も、あたかも等価なもののように受け取っている、そんな印象がある。

*2:妖精とされた5人の男性出演者に割り振られているのは、妖精1,妖精2,妖精3,妖精8,その他の妖精、となっていた。この遊びに意味があるとすれば、舞台に出てこない妖精が居ると言いたいのだろう。観客にその妖精を探してほしいということか、観客に妖精になってほしいということか

*3:この展開が、まるでチェルフィッチュの手法のようでもあり6作品の中で最も「現代口語演劇」の延長線上にある演劇の最新のモードに沿っているようなのが面白かった

*4:これでは、ひいきのひきたおしみたいなものなので、ここで「ダンスシアター」として一貫して見るという視点がとぎれ、単にダンスを見ているだけだ、と考えられても仕方がない。もっとましな論述ができれば、訂正したいところだが、とりあえず。