二人のルートヴィッヒ

1999年の夏に、東京の伝統ある語学学校、アテネ・フランセで開かれた上映会で、ハンス・ユルゲン・ジーバーベルクの「ルードヴィヒ二世のためのレクイエム」を見た。ソンタグの評論を読んで以来ジーバーベルクの作品を見たいものだと思っていたが、めったに上映される機会もないのだった。

「ルードヴィヒ二世のためのレクイエム」を見た後、ソンタグの評論は歴史の重みにどう対処できるのか、という問題に貫かれていることが、改めて印象深く思えてきた。消化する間も自らに与えないほどに歴史の遺物を過剰に飲み込んでしまうやり方と、伝統を一切捨て去るように振る舞う生き方。この、ソンタグが歴史に対処する二つの道を対比させる仕方は、『ウィトゲンシュタインのウィーン』という本で、哲学の伝統などお構いなしに独創的な哲学書を執筆したウィトゲンシュタインと、重厚な歴史研究を元に大部の著作を残した哲学者カッシーラーとの対照が、一二音技法を開発して無調音楽を創始したシェーンベルクと、伝統的な様式を抱え込んで作曲していたマーラーとの位置関係に類比されていたのと同じ構図だ。

ところで、「ルードヴィヒ二世のためのレクイエム」を見ていて僕が連想したのは、デレク・ジャーマンの「ウィトゲンシュタイン」という映画だった。
「ルードヴィヒ二世のためのレクイエム」では、ほとんどの場面において背景全てが書き割りである。ここでは当然、ワーグナーの楽劇が参照されている。場面自体が書き割りに囲まれた舞台であるかのような空間で展開する。そして、切り返しのカットで今まで見ていた場面の背後が写されると、そこにも書き割りがある。360°あからさまに絵とわかる描かれた壁に囲まれた世界でドラマが進行するわけだ。この閉塞感は、歴史の重圧とか、退廃とかと言えるようなものに他ならないと思った。

ウィトゲンシュタイン」では背景は闇に閉ざされている。何も写らない。人物だけが闇のなかに浮かび上がり、そこでドラマが進行する。この背景の処理自体が、ウィトゲンシュタインの哲学的姿勢をあらわしていたことが、エンディングのルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン少年が昇天する場面で明らかになる。論理に貫かれた何の摩擦も無い世界から、色彩のあふれる不透明でざらついた世界へ。

「ルードヴィヒ二世のためのレクイエム」では、ひげを生やした少年として表象されるルードヴィヒ二世が涙を流している姿が、冒頭とエンディングで繰り返されていた。

・・・。

二人のルートヴィヒ少年の無垢は、まるで、合わせ鏡のようだ。そんなことを思う。

(初出「plank blank」/2010年3月12日再掲)