『グァラニー 〜時間がいっぱい』評(2) ノスタルジックな未来

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かつて高橋源一郎が「メタフィクションの作者は、どこかで恥ずかしさの意識を持っていないとダメだ」みたいなことを言っていたのを読んだ記憶がある。メタ演劇的に捩れた構造を持つ『グァラニー』を見て、自分の経験を率直に語ろうとするからこそ、メタ演劇的になってしまう、ある種の恥ずかしさの感覚みたいなものが、作品のメタ演劇的構造に必然性を与えているんだな、と思った。

この作品のラストの場面について、もう一度考えてみたい。饒舌で大げさな長台詞の中に作品への自己言及が織り交ぜられてた場面や、コミカルに様式化されているような場面が続くこの作品のなかで、一番、ナチュラルなリアリズムに近い演技がなされていて、断片的に挿入されているかのようだった。

作品のラストには、母親に励まされた娘が、積極的にパラグアイの飲み物を友達にすすめて、友達がこわごわと口にしてみると、少し戸惑いながらも、「おいしい」と言って、二人の関係が縮まっていくことを感じさせるような場面が挿入される。

再現的で、叙情的な、あまりにほほえましくも美しいシーンなのだが、舞台の中央で演じられるこの場面の背後に、他の演者たちが声援を送っている様子が演じられている。
『グァラニー 〜時間がいっぱい』 - 白鳥のめがね

「失敗してもいいから、何度でも繰り返し、友達と仲良くするようにしなさい」というような母からの励ましを受けて、友達との友情をつちかってゆく未来を示唆しているような場面。

この場面を、僕は前回、劇中劇ならぬ「劇の外の劇」と形容して、観劇のあと劇場の外に出る観客たちの現実の一場面に相当するようなものと見ることができる、と論じた。

そう論じることが間違っていたとは思わない。作品のメタフィクション的な構造から導かれる解釈として成り立つものだと思う。しかし、それはやはり、ひとつの解釈であって、別の解釈も可能だ。

あのレビューを書いた後に、ある人が「ラストの幸福感は、実現しなかった理想郷のようにも見えて、切ない」という風な感想をおっしゃっていて、確かにそういう解釈もできるな、と思い返す。

だけど、この二つの解釈は、矛盾しない。むしろ、この、過去の悔いと未来への願いとが重なり合うような両義性が、見事に演劇的に造形されていたと考えた方がいい。
そう考えてこそ、先に僕が語りたかった政治的なポジティブさというものも、より確かなものとして語れるように思う。



『グァラニー 時間がいっぱい』という作品は、二部構成のようになっていて、前半では作者自身を思わせる人物(役名はるお)の語りが、その同僚と思われる女性(役名水野)の語りへと引き継がれ、水野が、「はるおと結婚して南米に行って子供を生みます」と長台詞を終えると、コミカルな映像が挿入されて、南米ではるおそっくりの男の子が生まれることが映像で描かれる。後半では、南米生まれの父と日本生まれの母との間に生まれた娘が日本に転校する様子が描かれる。戯曲ではその子(真紀)は「はるおの孫」とされている。はるおに投影されている作者が日系移民の孫だったことを考えると、ここで時間は循環するように重なり合い、未来が過去に接続されていることになる。

舞台のリハーサルをフランス語では繰り返しの意味の「レペティション」という言葉で言い表すけれど、ここで劇中の時間が繰り返しのようになっていることは重要だ。

この作品のタイトルは、二重になっているけれど、二重になる理由があったのだろう。
『グァラニー』は、「南米パラグアイ、ブラジルあたりの先住民族」を示す語だという。作中ではグァラニーという民族や言語のことは、直接には主題化されないけれど、「パラグアイの国民の9割は白人とグァラニー族の混血」と当日パンフレットで説明される。

南米の日本人学校での生活と、日系移民の子供が日本に転校する経験を描くこの作品が、『グァラニー』という言葉を冠する理由は、そこで、世界史とのリンクをつけておかなければならなかったからだろう。日本人には耳慣れない固有名詞は、直接に歴史を読み取るよう示唆する。

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

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「時間がいっぱい」は、作品の最後ではあふれる未来の可能性、何度でもやり直せるし、どの道にも進める、というような意味合いで使われるけれど、このタイトルが作品の冒頭で男優がタイトルコールのように口にする時は、『モチモチの木』が怖かった思い出と重ね合わされながら、初めて異国の地で夜を迎える時の、時差ボケで朦朧とした意識が感じる、知らない土地の恐怖を語るモノローグに挿入されるように叫ばれていた。たぶん、複数の歴史、その落差や恐ろしさ、といったものも含まれている。固有の過去から出発しての未来である。だからこそ、タイトルは二重でなければならなかったのだろう。

最後に挿入される、南米から来たばかりの真紀が慣れなかった日本の友達と仲良くなっていくという場面は、作者を思わせるはるおが残した、会社をサボって町田の喫茶店に居る様子を淡々と語る手紙の朗読のあとに加えられる。ここでの、手紙で描かれる冴えない現在と、挿入されるハッピーな場面との対比が重要だ。

最後の場面では、手前で繰り広げられる友情を結ぶ場面がリアリスティックであるのに対して、その後ろに並んだ登場人物達が、アメリカのコメディードラマで画面の外から重ねられる観客達の声みたいに、少しコミカルに誇張した感じで、声を潜めて、ひとつひとつのやりとりに息をのんだり、声援したりしている様子が重ねられている。まるで、後ろに居る登場人物たちは、その場面を覗き込む天使か亡霊のようでもある。本来なら、そんな場所には居るはずも無く、そんな所から見ることもできないような、リアルでない位置に彼らは居る。

この場面は、照明は薄ぼんやりと人々だけを暗闇の中に浮かび上がらせるみたいで、確かに、ノスタルジックな雰囲気を漂わせてもいた。現実感と非現実感が重ねあわされ、メタ演劇的にも、ファンタジックにも解釈できるような両義性がある。観客もまた先取りして思い描いていたことが、舞台表象として実現されることで、しかし、脳裏にかすかに浮かんでいた未来の劇は、すでにあったことのなかに漠然と沈んでいくようでもある。

繰り返し演じられる舞台は、その都度の現在なのだけれど、演劇的な装置の中で、先取りされた未来のようにも、遠い過去のようにも、見えてくる瞬間がある。

ひとつの場面を切り取って、繰り返し演じてみせる。舞台の上では、常に、リハーサルや、以前の上演で繰り返し何度も演じられた過去が、未来に賭けられている。

上演が成功するとき、ささやかであったとしても、そこには希望の実現が提示されている。描かれることは、虚構として、現実ではなかったとしても、遠い憧れのように、希望が目の前にあるのを、客席から見ることができる。