近代日本語に弔いを 2.1+

網野善彦の『日本の歴史をよみなおす』は、日本語と文字の歴史を振り返ることから始まる。そこに、こんな気付きが語られている。

私は全国の江戸時代の古文書を仕事の必要から見ており、それを読んで筆者をしていたりしたのですが、ごく最近ふっと、なぜ自分が九州の文書を読めるのだろうかと疑問がおこってきたのです。
 つい四、五年前、鹿児島にいったときのことでした。バス停で五分ほど待っているあいだ、隣にいたお年寄り二人が、楽しそうに笑いながらいろいろな話をしているので、何を話しているのかなと思って、なんとなく耳を傾けて理解しようとしたのですが、何を話しているのかまるっきりわからない。:::略:::
 その経験が文章を読んでいるときにふっと重なって、どうして自分は全国の文書を読むことができるのだろうということ自体を不思議に思ったわけです。
ちくまプリマーブックス pp.15-16)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

網野善彦のような歴史の専門家が、素朴な疑問として気がついたということが、問題の重要さを二重の仕方で示しているように思う。「古文書がなぜどの地域のものでも読めるのかということが非常に大きな問題だ」ということに、それまでほとんどの専門家が注意してこなかった、それだけ自明なことと思われていたということに驚くし、そこに気がつくことができたところに、網野善彦の過去の事実への具体的な迫り方が示されているように思う。
そういうことが国語の専門家の間でどういわれてきたのかしらないけれど、網野善彦ですら日本の「文字社会」の均質性に長い間気がつかなかったということを思うと、そこで見失われてきたことの大きさを思わずにはいられない*1

ところで、これは大正生まれの今は亡き祖父から聞いた話なのだけど、祖父の父、つまり私の曽祖父は、文字が書けなかったそうだ。子どもの頃そう聞かされて、義務教育も無い時代だから文字もかけなくて当然だったんだなと思っていたけど、それも勘違いだったらしい。
祖父は、長野県最南端の天龍村で生まれ育った。祖父は次男坊だったので、その家を継がなかったのだけど、その「本家」は、江戸時代には庄屋というか名主というのか、そういうそこそこ大きな家だったようだ。私が子どもの頃には、もうすでに戦後に建てられた家だったけど、割合大きな敷地に広い家を構えていたと思う。
これも後に祖父から聞いたのだけど、祖父の祖母は、ふすまの裏張りに、いろいろと文字が書き付けられた古い文書を反故にして使っていたことがあって、まだ子どもだった祖父はそんな古い書類を捨ててしまうのはもったいないじゃないかと祖母に言ったところ「大事な書類は別に保管してある」と答えたのだという。
それぞれ別の機会に聞いた話だったと思うのだが、祖父の話を総合すると、こういうことらしい。祖父の二代前か三代前に放蕩息子が居たらしく、財産を食いつぶして家が傾いてしまったのだという。それまではかなり裕福な家で、だから文字を読み書きできる人もいて、家に文書が保管されていた。家が傾いてしまってからは、暮らしが貧しくなってしまったので、古文書も保管している余裕はなくなり、子どもも文字を習うことができなくなり、それで祖父の父は文字が書けない人だったのだ。
曽祖父には会ったことがない。私が生まれる前には死んでしまっていた。祖父から聞いた話のなかでイメージされる曽祖父は、ほの暗い囲炉裏の部屋で、気難しい顔で何かの細工をしている。祖父の話を聞きながらそんな空想をしたのだろう。祖父から、曽祖父は手先が器用な人だけどぶっきらぼうだった、みたいなことを聞いたことがあったような気がする。

祖父は、尋常小学校の高等科*2を出て東京の反物の問屋に奉公に出て、そして太平洋に出征した。運よく帰還し、天龍村で結婚して分家をかまえたのだけど、子どもの頃は「のらくろ」の漫画を読むのが楽しみだったという。国語の時間には、作文や朗読がうまいということでとても褒められたのだそうだ。でも、祖父がそんな自慢話をしたとはあまり思えない。どうも、国語が優秀だった件は、母か祖母からそんな話を聞いたのかもしれない。確か、祖母と祖父は同じ小学校に通っていたのだと思う。

ずっと、祖父の家系は農家だと思ってきたのだけど、網野善彦の本を読んでいると、単に農業をしていただけではないかもしれないと思えてきた。おそらく、天竜川の水運を介した交易の中継地でもあったはずで、そうした商取引に関わっていた可能性もあるのかもしれない。

これは特に確認したことではないのだけど、祖父の家系を遡ると政争に破れて逃げ延びた鎌倉武士か何かが祖先にいるのではないかと思ったことがある。というのも、「本家」の裏手に家の祠のようなものがあって、そこに八幡菩薩が祀られていたからなのだが、その話は、また別の機会に書いて見たい。

関連エントリー
近代日本語に弔いを 2.0 - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを 2.01 - 白鳥のめがね

(付記)注に反応があったので補足を書き足す。(11月12日)

*1:「旧かなこそ正しいと思う人からすると、これも戦後の文字政策を批判する格好の論拠になると思われるかもしれない。私は、その方向には進まないようにする。」とこの注に書いたら「何の方向かわからない」と書かれた( 11月のメモ - ノート )ので補足しておくと、明治期の言語体制とでもいえるものが、それまでの文字社会を破壊したこともまた、大きな問題であり、単に戦後の文字政策を批判すれば、「伝統」が正しく継承されたり保存されたりするわけではない、というのが私の問題意識だ。明治期に行われた文化的破壊は平行して伝統の事後的形成を伴っていた。それ以降、その再生産が続いていると考えるべきであり、明治期に始まった文化的破壊のプロセスが最終段階に入っているという意味で、現代は、まさしく明治以降の「日本的近代という伝統」の正統を継いでいるともいえると私は考えている。さて、いわゆる歴史的仮名遣いが正しく、戦後の仮名遣いが不正であるという判断は、特定の前提に立たないと出てこない理屈であり、私としては、築島裕氏が述べたとおり、どちらにも根拠があり、どちらにも相応の合理性がある、と考えるべきだと思っている。次エントリーでの「歴史的仮名遣い―その成立と特徴 (中公新書)(p.9)」の引用参照:近代日本語に弔いを(8)−国家と仮名遣い− - 白鳥のめがね。結局、文字政策は政策選択の問題であり、私は戦後の文字政策は民主主義的にいって国民の合意がすでに蓄積されたものであり、相応の正しさがあると考えている。たとえば戦後導入された「サマータイム」が結局廃止されたことを考えると、国民生活が国家のいいなりになっていたわけではないことがわかるのではないか。文字改革は国民の多くが支持した。その民意を軽んじるべきではない。そして、その民意は単純に愚かだったわけではない。この点については、必要を感じればまた触れるかもしれない

*2:ネットで確認するかぎり、尋常小学校の上には高等小学校がある、という制度区分になっていたらしいので、公式には「尋常小学校の高等科」というのは間違いなのかもしれない。しかし、自分は祖父についての話でそういう風に聞いた覚えがあるので、自分の記憶の方を優先して、こう書き記すことにしておきたい。あるいは、それも記憶違いかもしれないけれど。