身体と遠近法−「恋スル身体」展の感想

99年夏に宇都宮美術館で開催されていた「恋スル身体」展では、最近のメディアの革新によって変容した知覚をテーマに含んだ現代美術の作品が集められていた。その展覧会で、写真をコンピュータで加工した作品を作っているやなぎみわの作品を初めて見た。以下の文章は、その機会に掲示板に書いたものを改訂したものである。

やなぎみわの作品は、その展覧会では、横長の大きな作品が一点だけ展示されていた。それが、大抵どの美術館にもあるという日本画用の陳列スペースに収められていた。壁から奥まっていてショーウィンドーのようにガラス張りになっている広い陳列スペースの、ほぼ全体を占める画面。…これは場所を生かしたコンセプトの勝利だ、と思った。

日本画用の陳列ブースというのは、多分、屏風とか掛け軸はガラスで保護された額に入れられないから用意されているのだろう。以前、世田谷美術館で、そんな日本の美術館の規格、あるいは制度を批判的に浮かび上がらせようとする、ある作家の作品をみたことがある。

さて、その、まるでショーウィンドーの中に収められたようでもあり、日本画の伝統に境界侵犯し、あるいは批判的に対峙し、あるいは共犯関係を結んでいるかのような当の作品は、融合しあった三幅対といったものだった。

右端は、ななめ後方に無限に続く和洋折衷的に豪華な回廊で、デパートの洋服売り場の商品が乱雑に散乱する光景が合成されている。何か物思いにふるデパートの案内嬢のような女性の姿がそこに点在している。中央に作品の半分以上を占める横長の画面がある。水槽を背にした回廊を正面から捉えた冷ややかな画面で、赤い服の案内嬢が思い思いに佇む。左端は、デパートの吹き抜けのような、しかし閉ざされた空間で、中央の画面の回廊は吹き抜けに開かれた手すりにつながっている。そこに同じ制服の案内嬢が手前から奥に並び、手前にはクローズアップのように画面の近くに女性が位置している。画面のフレームに収まらない人物像が遠近感を強調している。
三つの画面はつながりあっているように見える。それぞれの空間を単独で見ると一点透視図法になっていて、画面と画面のつなぎ目は、二点透視図法にしたがっているように処理され、画面を横切る視線は違和感なく、しかしどこかだまし絵のようなめくるめく効果を感じつつ、行き来することができる。画面の両端はうす暗がりになっていて、照明の効果と融合し、作品自体がその場の空間に溶け込むようだ。

絵画における遠近法は、単に網膜像を画布に再現する幾何学的法則にとどまるものではない。じっくり絵を見るときに、観客は眼球を動かして、画面のいろいろな点を眺めまわすことになる。例えば、絵のサイズが大きくて上の方は見上げないと見えないような場合、観客は目を上げたり、首を上げたりという動作をする。こういう体の動きの感覚は、無意識のうちに視覚の印象と混ざり合って高さの感覚を生んだりする。例えば、描かれた風景の塔の高さや雲の高さを感じさせることになる。画面が横に広ければ、目を左右させる感覚が、パノラマ的な印象を与えることになる。
平面の絵が立体感をもつような錯覚というのは、さまざまな感覚が統合される「共通感覚」によって生み出されると言える。いわば、写実的な印象を与える絵画は、意識的な判断以前に脳のなかで無意識的に働いているさまざまな認知の回路に作用しているとも言える。

やなぎみわの作品は「身体」というキーワードで括られることが多い。その理由のひとつは、画面に規格化された身体像が繰り返されていることだろう。しかしこの作品では同時に、作品の大きさ自体が、見る側の身体感覚に直接訴えかける作用を持っている。身体表象は身体感覚を喚起する。身体感覚のある種の失調が、画面上の身体イメージの異様さと何らかの回路を形成するとき、常識として定着されている認知の機構そのものが、創造的な変容に駆り立てられる場合もあるかもしれない。広告やショーウィンドウを何気ないものとして見ていた目が、様々な場所に異物を見出す目へと変容するきっかけが、そこにひそんでいるかもしれない。


やなぎみわの作品の多くは意図的に遠近法を強調したものである。一点透視図法の消失点は無限に遠い地点なわけだが、画面で強調される消失点によって、消費社会の際限の無さ、きりの無さをあらわそうとしていると考えることもできるだろう。とすれば、画面の中にある無限のかなたは観客の日常につながっていて、浅田彰流にいえばクラインのつぼをなす・・・なんて取ってつけたようなありきたりの感想もつい思い浮かぶ。

画面を良く見ると、水槽にはバッグや衣服などの商品が死体のように浮遊しているし、床に立っているかに見えた人物が、実は宙に浮かぶように処理されていたり、一目見たのでは気付かない細かな仕掛けが織り込まれている。

…この作品のメランコリックで郷愁を漂わせるような迷宮感覚は何かを思い出させる…ボルヘスの「伝奇集」という名前がふと浮かぶ…いや違う、むしろ筒井康隆の「畳宇宙もの」だ…。

筒井康隆の短編に、どこまで行っても畳の部屋が続いていて、子供の主人公がそこをさまよう、というようなものがある。「家」という短編は、果てしない海の真ん中に巨大な日本家屋があって、そこに一部族が独立した社会を形成しているというものだ。この「畳宇宙」のイメージは長編「夢の木坂分岐点」に結実することになる。
「畳宇宙」は、薄暗い畳の部屋で成長した記憶が紡ぎだした幻想だ、と言えるかもしれない。いわば、畳が世界の中心を占めるようなイメージは、畳を軸とした宇宙論的な世界認識の配置、生活経験が染み着いた身体から立ち上がる方位感覚のようなものを表しているのだ。

一方、やなぎみわの作品は、生まれたときから世界がショーウィンドウのなかにあるような世代の無意識に浸透しているものを描き出していると言えるのではないか。消費への欲望が市場経済によって組織されてしまっていて、資本の流れから独立したプライベートな空間などもはや存在しない。やなぎみわの作品に「消費社会や情報社会に対するある認識、批判」があるのは確かだろう。しかし、それだけでは終わっているとも言えない。ある種個人的、生理的な感覚も反映している。経験の奥底にたたみ込まれた生い立ちの思い出を懐かしむような気分もある。だが、それは畳の部屋のうす暗がりの恐ろしさではなくて、白々とした蛍光燈の冷ややかさに照らされている。

やなぎみわの作品が示しているのは「消費社会へのノスタルジー」である、と言われることもある。消費社会というのは過去を常に洗い流し、故郷を抹殺するようなものだとすれば、「消費社会へのノスタルジー」という言い方体、矛盾しているというか、ある種のねじれでしかありえない。やなぎみわの作品は、あらかじめ失われたものとしての、よそよそしい、しかしまぎれもない出生地を指し示している、と言えるのかもしれない。

やなぎみわの作品は、宣伝美術に限りなく近づいているし、ある意味、あまりに分かりやすいと言えるかもしれない。実際最近のコマーシャルには、やなぎみわ風のイメージを使ったものさえ見受けられる。芸術作品としては、きわめて危うい位置にあると言えそうだ。
しかし、作品が提示しているのは、単なる希望でもなければ、単なる絶望でもない。なにか語り尽くせないものが感覚されている。作品が良い意味で両義的なものを持っている。そして、ひとつの機構として知覚の成り立ちそのものを揺さぶる力を持っている。少なくともそれらの点において、やなぎみわの作品は芸術作品としての条件を満たしている。

(初出「plank blank」/2010年3月12日再掲)