クストリッツァの「黒猫・白猫」から始まる喜劇論―覚え書き―

クストリッツァの「黒猫・白猫」を見たあとには幸福感にあふれて映画館を後にしたのでした。
もうね、ラストまぎわなんか自転車猛ダッシュの疾走感。ころんでもすりむくだけでOK!これにくらべればハリウッド産の「ジェットコースタームービー」なんて遅さが足りないだけじゃんっていうか。

アンダーグラウンド」でもいろんな場面を走り回り、いろんなシーンについて回っていたブラスバンドが印象的でしたが、「黒猫・白猫」でも出てきましたね。病院にお見舞いに行くシーンで、そーっとブラスバンドが入ってくるなんてあたりは傑作だった。
黒猫・白猫」では、だいたい音楽は、場面の中でも響いているという描写がなされてました。でも、アフレコの音なので、全然演奏の演技と音楽が合ってないんだけど、もちろんそれも計算済みで作られてるでしょう。CMでもブラスバンドが木にくくりつけられてるカットを使ってました。あれじゃ演奏するのが大変です(笑)

どっちかというと、「黒猫・白猫」より「アンダーグラウンド」の重層的で重厚な感じが好きなんですが、「黒猫・白猫」の爽快感は、見た後に胸に何も残らないような澄み切ったかんじで、これはこれで得難い経験かもしれない、と思いました。

ひまわり畑で愛を交わすシーンだとか、女優さんも主人公の男の子も、カメラワークも編集も、小道具の使い方も、素敵!の一言。友人が「昼の恋」の映画だ、なんて言ってましたが、青空を待つのに時間を費やした映画でもあったということ。

この発言を受けて、おたべさんは「イダと男の子の向日葵畑のシーンなんか、言葉そのもの昼の恋って感じですよね。好きだなぁ。あの解放感が生への積極的な肯定に繋がってんだろなぁ。」と書き込んでくれました 。

この映画には、白猫と黒猫が全編に渡って登場している。黒猫は不吉なものという迷信があるわけだけど、反対に、白猫は幸せの象徴であるかのようでもある。黒猫も白猫も、「黒猫・白猫」では場面を見守るだけで、ぜんぜん物語には介入しない。おたべさん流に言うと「だからこそ、最後の彼等の使い方は粋」だったわけです。

結婚式の証人は黒猫と白猫で十分だ、なんて大笑いしながら、法律家が猫の首もって、とうとうと流れる大河の上でゆらゆら揺れる小舟に立っている。黒猫が不幸のしるしだなんて迷信みたいな象徴性は吹き飛んでいるようでもあるし、逆に、いくらでも深読みできそうで、でもそんな事とは無縁なくらい、映像として雄弁である。

決して派手じゃないけど、首根っこつかまれた黒猫と白猫は、どこまでも単なる猫だってことが、それこそ端的にスクリーンに写されている。

あの、猫ちゃんたちの所在なげなぶらぶら具合とか、そういうものをきちんと切り取れるかどうかこそが問題。僕が今、映画のスクリーンに求めているのは、そんな一見ささいなものです。

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黒猫・白猫」で一番好きなのは、映画が終わったあとの、エンディングのテロップですね。あれはやられた。大笑いしました。あんなことした映画っていままであっただろうか?
オープニングのタイトル画面がイラストだけってのもいいですね。正式タイトルは絵で表されていることになる。そして、オープニングとエンディングが呼応してるとすると・・・もう一見素朴なようですごく仕掛けがいりくんでいるんですね。しかも、それが煮詰まって行かないで単純に楽しいという。

アンダーグラウンド」が政治的ないいがかりをつけられて、監督廃業宣言までするほどうんざりした後だけに、からっと明るい映画を作りたかった気持ちは分かるような気がしました。

さて、上のような事を僕が掲示板に書いた後しばらくしてから、商品劇場の大岡淳さんはドナウ川に託して描かれた政治経済的状況を示唆しながら 『黒猫・白猫』という映画について、あのエンディングの「ハッピーエンド」を字義通りに受け取るのは禁物だ、と彼の日記コーナーに書いていた。

黒猫・白猫」は、「過酷な現実を愉快に描いた映画と言うべきだ。」という大岡さんの指摘は重要なものだったと思うのだけど、「ハッピーエンド」とは実は皮肉だったなんて勘違いをしてはいけないのだろう。そんな風に考え直して、僕は自分の掲示板に次のような文章を書いたのだった。

あのエンディングは、東欧という、西欧にとっての「向こう岸」から世界へと向かうあらたな展望を開くといったような事すらおそらく内には含みながらも、更にそのまま 過酷な歴史的現実の宿命を愉快にも断ち切る、糞尿にまみれたばかわらいなのだ。
わざわざ映画の最後で「ハッピーエンド」という文字をスクリーンに映し出したクストリッツアは、スタイルとして喜劇を徹底したその先に、いわば幸福の再定義を行っていたのだ。

岩波文庫『暴力批判論 ベンヤミンの仕事1』に所収 されている論文「運命と性格」 にはこんな一節がある。「幸福とは・・・様々な運命の連鎖から・・・幸福な人を解き放つものにほかならぬ」「複雑は簡明となり、宿命は自由となる。というのも、喜劇の人物のもつ性格は・・・その人物の行為の自由を照らしだす灯台なのだから。」

悲劇と喜劇という、演劇的で根本的な二大類型については、繰り返し立ち戻って考えてみるべきなのだろう。

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その当時、深夜に「黒猫・白猫」のCMが流れていて、それはなんか、広川太一郎だったか誰かがハイテションでまくしたてるってものなんだけど、「アンダーグラウンド」の巨匠が、とか、なんたら映画祭がどうした、とかいうことは一切言わない。単なるドタバタ映画の宣伝で押し通している。作品への愛が感じられて、見終わったあとに思い返すといとおしくなるCMだった。

実際「黒猫・白猫」は、ほとんど全編ドタバタ喜劇だ。こける、つまずく、ぶつかる、ものをおっことす、床をぶちぬいて落ちちゃうといった具合で。喜劇、道化、カーニバル→山口昌男なんて思い浮かべてしまう自分にうんざりしながら、画面にみなぎるのんびりとしたテンポの躍動感にニコニコするという感じで見てました。

見終わってから、そうだ喜劇を見よう、なんて思った私は、マルクス兄弟の特集を新宿でやってたな、と思い出したのですよ。というわけで見に行ったのは、マルクス兄弟の「二挺拳銃」という映画。西部を舞台に土地の権利書の争奪戦に巻き込まれたマルクス兄弟がドタバタを繰り広げるっていうもの。

それまでマルクス兄弟ってぜんぜん見てなかったんですが、中盤までのかなりの部分が歌や音楽で占められてたのが意外だった。音楽の技巧の早業と、喜劇のドタバタのアクションや軽業っていうのは、通じ合うものなんだな。インディアンの村で機織り機をハープにして弾いちゃうという場面があったりもする。でもインディアンの笛と合奏するのがドビュッシーかなんかだったりして、そのへんはちょっとインテリ臭さがすぎるな、と思う。

とりわけすばらしかったのが、後半の列車を舞台にしたドタバタシーン。悪役とおいかけっこしてるうちに、列車が暴走状態になっちゃって、燃料なくなって客車を壊して燃やしちゃうし、線路を外れて家に突っ込んでいっちゃうし。
スタジオ撮影と野外で本当の線路と機関車を使ったロケ撮影の両方のショットがつなぎ合わされていて、それは見事でした。コマを落としたりとか、いろいろな技法を駆使してるのだけど、しっかり繋がってる。
CGとか見るより、手作業的、職人芸的なものを見る方が僕は好きです。

このへん、「黒猫・白猫」の映像マジックに魅惑されちゃう感覚といっしょなんですね。たくさんのアヒルや猫をどうやって動かしてたんだろうかって考えるだけでわくわくしてくる感じ。

それにしても、こけたりつまずいたりって、どたばたがなんで面白いんだろうか・・・

僕なんかの70年代前半生まれの世代にとっては ドタバタやスラップスティックの原体験って、「タイムボカン」シリーズなんじゃないですかね。3歳くらいですでにみてるはず。ドリフっていうのは、もうすこし成長してから見たと思う。
タイムボカン」が見られない今の子供はちょっとかわいそうだなんて思ったりもする。で、きっとこれらの番組も古典的喜劇映画から滋養を得ているはずで、更にそのさきには肥沃な喜劇的なものの土壌が広がっている、と思います。それは別に民俗学的な世界にさかのぼらなくても、そこらに満ちてはいるものなのかもしれないけれど。

(初出「plank blank」/2010年3月12日再掲)