ダンスみたい新人8(J)(その寸評)

結局、3組を見て終わったダンスがみたい新人シリーズの8回目。私は元実行委員かつ元審査員なので通し券でご招待いただいてました、が。
では、最終Jグループの三組について、簡単にコメントしておきます。
http://www.geocities.jp/kagurara2000/s8.html

シュガーライス・センター『舞踏譜「演劇」報告書』

ハイレッドセンターにちなんだ命名なんだろう。佐藤ペチカさんが出るというので、この組のお目当てだった。
真っ暗な舞台に、懐中電灯をもった二人が明かりを互いに当てながら「何者だ?」「何者だ?名を名乗れ!」みたいな演劇のエチュードみたいな寸劇から始まる。そんなセリフを口走るように舞台を背をかがめてまろびつつさまよう男性ダンサーふたり。そこにあとから入場した佐藤ペチカさんは、やる気のないバレリーナみたいにふらふらっとバレエっぽい動きをしていると、男性ダンサーのひとりが「美しい・・・・」と言って懐中電灯をあてながら追い回したり。やがて「ちょっと休むか」と言って休憩したり「もう遅いから帰るよ」といって退場しようとして終幕だったり。基本的に喜劇的に軽妙なタッチであれこれの身振りやセリフが反復されるような舞台だった。出演者は顔だけ白塗りしてた。舞踏っぽいというよりは、道化師っぽくもある。
これも「ポストダンス的」と言っていいんだろうかとか思いながら見てた。たぶん、言葉や身振りの引用とか、無造作な併置や編集的な構成とかが、喜劇的な風な身振りがかみ合い折り合わされるモードと重なりあう地点があるんだろうな。この言葉に固執するつもりは無いけど、これもひとつのポストダンスなのかもしれない。

坂本知子/西村香里『なんとなく』

モダン/コンテンポラリー保守本流なデュオ作品。体が外から押されたり引っ張られたりするイメージが多用されていたようだ。それで腰をふり回したり肩を振り回す運動が、腕や足を投げ出す動きに連鎖して、玉突き的な動きが屈曲したりはじかれたりして動きが連なっていく。そういう動きに固有の美観や感触が踊ってる身としても心地よいのだろうなというのはわかる。ただ、それ以上のものは何もないように思った。そういう楽しみに飽きてから始まることもあるわけで。

石井則仁『とある一人の悲日』

とても技術がしっかりした人だなと思ってプロフィールを見たらこんな感じだった。

18歳からStreet Danceを踊り始める。22歳の時にこの世界へ飛び込む。
「Nomade〜s」 「大橋可也&ダンサーズ」 「BABY-Q」 蜷川幸雄宮本亜門などの作品に参加。

なるほどね。

前半はスーツ姿に悲しげな表情のシリアスな仮面をつけて、インダストリアル系のノイズっぽい曲にあわせて、束縛されたものの痙攣的な動きみたいなものを、パントマイム風に示していく。
終盤、スーツを脱ぎ捨て、仮面も外し、ブリーフ一枚になったところで、うごめく生き物といった風な、うねりのある、しかし切れのいい跳躍や屈折にもみちた、重厚で密度の高い動きを展開した。束縛を脱ぎ捨てて鋭敏になった感覚にはじめ苦しむけど、やがてその先に希望が見えるのか、みたいなストーリーがあるようだ。

全体として疎外とそこからの回復みたいな、いささか古臭く型にはまったモチーフにとらわれているみたいで、仮面の利用も含めて、むしろ古典的な作風でもあったけど、そういうわかりきったストーリーをなぞるダンスとしては、すこし冗長すぎた場面が多かった気がする。終盤の裸でのダンスには、あれこれ独特の造形感覚を感じさせるところがあったような気がしたけど、それは、僕がStreet Danceとかをあまり見慣れていないからそう感じただけのことかもしれない。

とても器用でよく舞台慣れした作り手だけに、そこそこ巧みに仕上げたみたいな作風には安住してほしくないな、という風に思う。とりわけ、暗転の多用には疑問を感じた。シーンを重ねたいという意欲はわかる気がしないでもないが、そういう映像的な演出というのは安易な手でもあるので、よほどの必然性が無い限り、禁じ手にしておいたほうがよい気もするのだった。安易な暗転とは違う攻めの暗転とか、どうしても暗転でなければならない転換というのもあるんだろうけど、いかにもそれっぽいクリシェと化した暗転というのは、ダンス的な緊張を弛緩させるだけに終わりかねないわけでね。

『Dropping - by』で食べて遊んだ

PlayAwayへの出演が記憶に新しい河村美雪さんの作品『Dropping - by』を初日にみた。
サブタイトルは「触れられる以前に消える自由を持っている。」。
河村さんの作品を見るのははじめて。

予約すると、「パーティに参加するつもりで気軽にすごしてください」といった文面のメールが届いた。

うつくしい雪
http://utsukushiyuki.com/

劇場として使われている東大駒場キャンパスの黒い壁の大き目のホールで、複数のカメラで捉えた映像がデジタル加工されてライブで放映されていて、バーでは飲み物なども供されている。

まだ始まらないのかな、とぼんやりしていたら、急に耳元でハミングされておどろいた。そんな風にいろんな人に不意打ちするように声をかけている。という仕方で始まった。

席が決まっているわけでもなく、立っていてもいい。広い空間に散在する人々の誰が観客で誰がパフォーマーなのか区別もあいまいで、いろいろなところで同時多発的に即興的パフォーマンスが同時進行する。

はじまってわりとすぐに、イチゴのタルトみたいなケーキが供されて、おなかすいてたのでその列にならんだ。とてもおいしかった。ケーキ食べているひとが周りのひとから急に「おめでとー」と拍手されたり、一列に並んだパフォーマーがあれこれ思い付きみたいな質問を順番に投げかけては答えを待たずに去っていったりもする。

あるいは、パフォーマーが観客の誰かの脇に立って観客の振る舞いを真似し始めたりする。その隣にもう一人のパフォーマーがついて、その身振りの真似を伝言ゲームみたいにつなげていく列ができていったりする。それに気がついて、思い思いに身振りで遊ぶ観客もいる。

ジャグリングが始まることもあったし、急に女子高生(あんまり知らないけどほんとに女子高生タレントだったそうだ。)が入ってきて撮影会がはじまったりしたこともあった。

インタビューが始まって、女子学生風の共感覚者が数字に色や形のイメージがあるという話をはじめたりした。その話をすぐ後に伊東沙保さんが少し離れた場所でそっくり真似したので、台本があったのかなと思ったけど、共感覚者だったのはほんとみたいなツイッターのつぶやきが後でスクリーンに映し出されたので、実際に話されたことを伊東さんがその場で暗記してコピーしただけだったのかもしれない(そうだとすると伊東さんの演技を咀嚼する瞬発力がすごいって話だ)。

そんなこんながあって、最後は急に暗転したかと思うと、それまで抽象的なパターンみたいに加工して映像が流されていたスクリーンとは別に、入り口から見て突き当たりの奥の壁にUstreamで流されていた(リハーサル時の?)画像が再生されたり、本番前から関連してつぶやかれていたツイッターのログが放映されたりして、1時間ほどで終わった。

あと、音楽も、うるさくない感じの、アンビエントっぽいノイズ風音楽がライブで流されていて、それもいい雰囲気を出していた。

と、およそそんな感じのイベントだった。全体的に、嫌味ではなくコントロールされ構成された、趣味のいいイベントという風に思った。

参加してみて、ケーキもおいしかったし遊べて楽しかったのだけど、こういう感じのイベントには何度も立ち会ってきたよなと思った。アフタートークでは、困惑して質問してる人もいたし、ツイッターを見ると何か新鮮なものとして受け取ったひとも居たみたいだけど、この手のものに触れた経験が無かっただけの話だろう。すき好んで前衛っぽいイベントの類を渡り歩いてきたら、僕はこういうものへのリテラシーが高くなってしまっていたようだ。
客席が無い部屋で役者と観客が入り乱れてなされる演劇の類はいくらでもあるし*1、同時多発的に即興が行われるイベントというのも、毎年やってる定番のところでは「透視的情動」だとか、いろいろある。芸術の歴史を遡ると、ハプニングというのも今回の試みに近いものだろう*2

テンションが高くない、密度の高くない、ある種の相互作用が人々の間に起きては消えるような場を成り立たせること自体が作品だという発想自体は、いまやそれほど突飛でもなく独創的でもないだろう。
河村さんには河村さんの必然があって、参加していた人のいろいろのアイデアは、今までなされてきたほかの試みとは別の文脈から出てきてはいるのだろうけど、結果としては、演劇であったり、ダンスであったり、パフォーマンスアートだったり、そういった文脈から出てきた、同時多発的な自発的即興という試みと、参加した印象の面ではほとんど変わらない。

客席が固定されず、パフォーマーのすることは厳密には決まっていないが、いくつかのルールやタスクがあって、ゆるやかに即興がなされる、という条件で、人々の間に散発的に関係が生まれたり消えたりする状況に、ある種の特有の質感がある。やることはあれこれ違っても、なんで印象が似通ってしまうのか。ひょっとすると、互いに反応をうかがいあうような一瞬の隙みたいなものが連鎖して、注意が落ち着きどころを見失っているような状況が、特有の雰囲気を生み出すということかもしれない。
それは、雑踏を歩く人は、それぞれに様々で一度として同じことは無いのに、ある場所の雑踏の雰囲気にはたいてい何か共通のものが感じられるということと同じなのかもしれない。社会が集団的な条件においてみせる相貌というものがあるのだろう。

僕自身は、そういうある種退屈な時間の持続に触れることの固有の面白さは嫌いではないし、たまにそういう場に立ち会えるのはちょっとリフレッシュできる機会のような気もするので、こういうテンション低いけれど知的な読み解きを促すような即興的な空間が提示されるようなイベントは、もっとたくさん起こっていてもいいよなと思う。

ひょっとすると、そういうゆるい質感というものは、密度の高く練り上げられたものをテンション高く提示するようなギャラリーや劇場の時間経験に比べると、あまりにゆるすぎるために、人々を惹きつける性格が弱いというだけのことなのかもしれない。

*1:最近のものですぐ思い浮かぶところでは、岸井大輔さんがやってた「(-2)LDK」の公演とか、メガロシアターとか

*2:ポタライブも、観客自身の自発的なリアクションが作品を成り立たせるという点では、同じようなことを試みていたのだと言ってよい。ポタライブの場合は、観客が参加していることが前景化しない仕掛けになっている点が大きく違っているので、その点の相違をどう考えるのかは問題かもしれない

三条会の『S高原から』(2)

三条会がこないだ上演した『S高原から』を初日に見たわけだった。
三条会の『S高原から』(1) - 白鳥のめがね
前回はパフォーマンスや演技の魅力に触れつつ語ってみたわけだけど、今回は演出のレベルでこの上演のよさについて考えてみたい。

平田オリザの『S高原から』は、何かわからない不治の病に冒された人々が過ごす療養所のような場所で、面会人や患者達が交わす会話を描いたもの。初演時は「近未来もの」だったが、設定上の近未来は2010年夏だった。

三条会による今回の上演は、原作戯曲のセリフだけをほぼ忠実に演技していったが、声に出された言葉以外の、上演要素においては、原作戯曲からかけ離れた様々なイメージを展開するという仕方で遂行された。

まず、舞台が教室に模された空間になっているのが、原作と大きく違う。『S高原から』の原作では、高原の療養所の待合室風の場所を再現するようにト書きで指示されているのを、教室に置き換えてしまっている*1

なぜか「携帯電話をおきりください」といった開演前のあいさつ抜きで舞台が始まってしまうのだが、その理由もすぐにわかる。

戯曲には、客入れ段階から役者が舞台上に居て、開演前にほんのすこしセリフのやり取りをするよう指示しているのだけど、舞台のセッティングの指示や開演前の何分頃にこんな小芝居をするといったト書きの指示も含めて、本来声に出されない開演前の演出を示したト書きがすべて一人の役者(兄妹の入院患者カップルの兄)によって声に出されてしまう。そこで、「まもなく開演します、携帯電話をお切りください」という案内もト書きに指示されているものを、上演開始後に、ト書きを声にだすその役者が声に出すことになる。

こうしたプロローグ的パートは、戯曲には一見関係なさそうな場面を描きつつ進行する。学生服を着たパフォーマーが一人ひとり入場してきたかと思うと、動物を模したスリッパを履いたスキンヘッドの男(前述の兄役であると後でわかる)が机の上に登って、飛び降りてみせて、それにあわせて、他の高校生風の出演者(入院患者のそれぞれを演じる)も机から飛び降りるという風な場面があったり、パレード風に入院患者以外の役(看護人や面会人)を演じる役者たちが列を成して入ってきたりする。

ここで、この上演の戯曲に対する戦略の基本はすでに読み取れるようになっている。たとえば、机から飛び降りることは、戯曲が繰り返しほのめかす死を暗示するようだし、看護人の男が背中に羽をつけているのは死後の昇天を祝福する天使のようだし、女看護人が鎌を手にして登場するのは死神の図像を連想させる。開演前から教室の机に置かれている花瓶もまた、死をイメージさせている。

ト書きという、本来上演では隠されている意図が舞台に提示されたり、上演ではほのめかされるだけの死のイメージがくどいほど強調されるのは、戯曲の外を描いてしまうようなことだ。上演という図がその外に陰画のようにしてそれぞれの観客の脳裏にほのめかすように浮かび上がらせるであろうようなものなのだろう。

上演のプロローグ的なシーンは、ほぼ同じような仕方で、エピローグ的に終幕で繰り返されるのだが、そこでは、作中で「風たちぬ兄妹」と呼ばれていた兄と妹が恋人のように感極まって抱き合っている場面を再現するように、その二人を演じた役者二人が抱き合っているシーンが演じられもした。原作戯曲では舞台の外で目撃されたと、舞台上に外から戻ってきた人々が語る光景だが、これは、「舞台の外で何か特別なことが起こっているのが目撃される」という、平田オリザ戯曲で繰り返されている手法への応接であると言える*2。平田戯曲のストレートな演出では、そうした「舞台の外」は、残響のように観客の想像の内に独特の感触を残して、それが、直接は描かれない。
こうした「舞台の外」の間接描写は、この戯曲で言えば「死」という出来事をめぐるテーマを立体的に浮かび上がらせるような、いささか文学臭のある装置として機能することを期待されているのだろうと思われる特徴ではあるのだけど、それを直接描いてしまうことは、平田オリザの戯曲に対する、ひとつの批評的な応接だと言えるだろう。
この手のテーマを補完するようなほのめかしというのは、解釈の余地を残し鑑賞の可能性を揺らがせるようでありながら、その余韻をわざとらしく感じさせる手つきにおいて、すでに解釈の方向は限定されているも同然である。
舞台に感情移入し、リアルにある場面に立ち会ったような錯覚にはめられた観客に、「自分が舞台上で見た以上の何かいわくいいがたいもののある舞台だった」といった感慨を抱かせるのを許すけれど、平田戯曲に仕組まれたこの手の「余韻」というのは、結局、「世の中には予想外のことも起きる」といった程度の、月並みな感慨を裏打ちする程度の範囲に収束するものであるし、戯曲のテーマとされるものを「図」とすれば、それに従属する「地」の輪郭を強調する程度のものに過ぎない。観客を馴致する作法と言える。この手の余地は、観客の享受に自由を残しはしないのだ。

この三条会の上演では、原作が、再現的な場面の外にほのめかすことで、観客がうっすらと想像するような内容や、無意識の余韻のように響くであろう様々なイメージを、先取りして埋め尽くしてしまう。

上の兄妹の抱擁もそうだけど、療養所の会話の中で「スパイダーマン」が出てくる場面、教室の隣り合った机でセリフが交わされている後ろの席に座っているスパイダーマンのマスクをかぶった役者が、これみよがしに「俺のこと?」みたいに驚いてみせる演技が注釈的に添えられていくのも、サブカルチャー的な言葉を会話に持ち込むことで観客の注意の拡がりを操作しようとする戯曲の意図を誇張して上書きすることで、戯曲の外を埋め尽くすような演出だ。

あるいは、看護人を呼ぶベルが鳴らされるたびに、学校の終業ベルが鳴り響き、死神のような女看護人が舞台に乱入して、そのたびに患者役の役者たちが地震に備えるように机のしたに隠れたりする場面がスラップスティック調に繰り返されるという演出もまた、戯曲のリテラルな進行に対する注釈のように機能しているわけだが、舞台の外から訪れるもの、舞台の外への呼びかけとしての、この戯曲の呼び鈴という装置が、テマティックな仕方で、死の訪れを待ち、死を迎え入れる空間を構成する仕掛けとなっていることを暗示するものだと解釈することもできる。いわば、無意識に観客が感じ取って、いわくいいがたい感銘として残るだろう呼び鈴にまつわるテーマ系を、これみよがしに描きつくしてしまっているわけである。

女看護人が、もう出番のない面会人の女性たちに、連続殺人鬼のように鎌をふりおろしていって、殺された風な面会人たちが遺体のように廊下のそとに倒れ伏していくという展開が、戯曲のリテラルな進行と平行して進んでいくのだけど、これもまた、原作戯曲が描く舞台の外に張り付いているような、不可避な死が偶発的に襲ってくるというテーマ系を強調して描きつくしてしまっているわけである。

この上演でさしはさまれた、原作戯曲に指示されていない様々なパフォーマンスや舞台表象は、一見恣意的であり、単なる悪ふざけのようにも見えるが、簡単に考えただけでも以上のように戯曲の主題に関連付けた解釈を許すものとなっているし、その構造は、舞台に明示されているだろう。

そのように、戯曲の行間からよみとれるテーマ系を転換したものとしてすべてを理解できるとしても、すべての解釈が一義的に収斂するわけではない。たとえば、医者役の役者が脚立の天辺に居ていろんな姿勢をとっていたりするいちいちが、戯曲のテーマと直接どのように関わっていたのかすべて明快に説明しつくせるのか、といったら、そうでは無さそうだ。

私が上に示したような解釈を、単なる辻褄あわせとみなして、異を唱える人も居るだろう。整合的に解釈できないと不満を述べるひとも居るかもしれない。私は、解釈が齟齬しても良いし、解釈しつくせなくても良いと思う。

この上演では、戯曲の外が様々な仕方で埋められているのだけど、そこには恣意的な思いつきも様々に含まれていたのかもしれない。演出家や役者のそれぞれにとっては、演技を彩る要素のそれぞれが戯曲から出発した発想であったのだとしても、その連想の道筋が、観客にはしっかり明示されなかったということもあるかもしれない。あるいは、戯曲のどのような構造がどのように転換されているのか、それは演出者や出演者にも明らかではなかったのかもしれない。

恣意的ではあれ、多様な解釈が可能な限り引き出され、舞台を埋め尽くすように投げ出されていたことが重要だ。

ただ、クライマックスとなるシーンで、スメタナの「わが祖国」の曲の展開にあわせて演技が展開するとき、一見関係のない戯曲と音楽の構造が、不思議と一致してしまうという妙技を見せられると、他の部分においても、普通は見えないような戯曲の構造を見出して、そこに絶妙にはまるものが慎重に選ばれているのだろうと想定されるわけだ。

原作戯曲が、まるで舞台がその場所であるように見せかけるだまし絵的なリアリズムに訴えかけながら、その外をほのめかしていたのに対して、この上演では、舞台の外にほのめかされるものも含めて、戯曲のテーマとなるものを手当たり次第に、過剰なまでに舞台の上に描きつくしてしまう。

そのことによって逆にこの上演は、原作戯曲が解釈を収斂させようとするほのめかしの内に、観客を馴致することで収斂してしまうような思わせぶりなテーマではないような様々な構造があることを観客に発見させてくれるようなものになっていたのだ。

その意味で、戯曲を多層的に解釈してみせた上演となっていたのだが、そのことは様式における多様性にもつながっている。この上演の舞台は、役者のそれぞれが多様な演技を載せても不思議と違和感のない場をなしていた。

そうした齟齬しあうような多様性は、観客にとっての見る自由を逆に保障するものになっていたのだろうと思う。

*1:机や椅子が学校風のものになっているほか、床には幼稚園ででもあるような、お花畑に虫が飛んでいるような絵が大きく描かれていて非現実的な空間になっている。塩ビパイプ風のフレームで、教室をなしている部屋の枠組みが示され、舞台上手には壁があって、その外に廊下があるという風に示している。そこに引き戸はリアリスティックに設置されているが、壁はフレームだけが示されるような抽象的な装置になっている。ほか、劇場の天井に届くくらいの脚立がひとつ立てられていて、下手の壁には数台の脚立がたたんで立てかけられている。あとは、劇場の壁がむき出しになっている。病院と学校が置き換え可能なあり方の場所である点は、イリイチが脱学校化・脱病院化を唱えたことを思い出しても、見やすい道理だ。更に、学校が成熟を保留する場であり、療養所が死を保留する場所であると考えるとしてみよう。古代において成人式が幼年の死と成人としての再生として成り立っていたという説(西郷信綱「鎮魂論」)にしたがって、この上演の置き換えを解釈してみることもできるだろう。

*2:そのことについては、次のように指摘したことがあった。神の裁きと決別するために/管見『コンプレックスドラゴンズ』++− - 白鳥のめがね

ダンスみたい新人8(E)(寸評)

die pratze 毎年恒例のダンスコンペ「新人シリーズ8」のEグループを見た。
http://www.geocities.jp/kagurara2000/s8.html
以下出演順に簡単にコメントする。

COLONCH 『the 8th day』

白いワンピースのダンサー1人と、茶色のワンピースのダンサー4人による作品。床を手のひらで打ち付けたり、胸を叩いたりと、打撃の所作と音を組み込んでいたのがアクセントになっていて、ある種、あくまでイメージとしてプリミティブなものを喚起するみたいなところもあったけど、基本的には、私の用語で言うモダン/コンテンポラリー保守系の作風。評価はその道の人にゆだねたい。
後半の激しい群舞のところで、一瞬(0.5秒くらい)すごくいいところがあった。それぞれのダンサーが対称的な振りを交換しながら狭い舞台を埋め尽くすように腕や足を振り回すような展開の場面で、ジャンプしながら足を曲げて一瞬つま先を天井に向けるようなステップが印象に残るあたりのステップの交差がとても素晴らしく見えた。それは、半ば偶然なのかもしれないけど、ダンサーのある集中状態がそういう質感を一瞬現出させたんだろう。そういう状態を少しでも生み出すことができる程度には、緊密な構成が作品として成り立っていたのだろうと思う。

秦真紀子

暗闇の中、息の音から始まる。はじめ暗いままの舞台で何か紗のような布にくるまった中にうずくまって、懐中電灯であたりを照らしながらもぞもぞと立ち上がり、行く手を手探りするように、舞台の片隅に移動していくというシーンから始まる。
そのあとは、ドローン系の、ビートのない音楽で踊っていた。
前半、足をやや広げて立って、腰を完全に折り曲げて頭を床に近づけた少し苦しげな姿勢で両手を真上にまっすぐ伸ばすポーズがあって、そのときの、指がそれぞれに別の方向を向くような手の表情は輪郭が彫像的に決まっていて、その美しさに心惹かれるものがあった。
しばらく腰を回しながらうねるような動きを続けているような場面では、即興的に体のなかに生まれるうねりの感覚みたいなものを動機にして動いているのかなと感じさせるものもあった。舞踏の系譜に連なるところもあるのかなと思ったりもしたけど、ネット上などでプロフィールを見る限り、特にそういう記載は見当たらない。
テクニックや様式よりも、感情から自発的に生まれる動きをそのまま提示するような、いわばイサドラ・ダンカン直系のフリーなダンスという印象もあるけれど、決めのポーズに静止しないような、中間的な姿勢が移り変わって行く状態を持続させているところに、すこし独自の感覚が宿っているような気もする。ちょっと気に留めておきたいダンサーだった。
ネット上にいくつかVideoが公開されている。これらのビデオでは集中力が途切れているなと感じさせるところがあるけれど、これらの映像よりは、今回舞台で見たほうが集中度や動きの密度は高かったように思える。


映像を見ると、いくつかの振りが今回の上演でも使われていたように思える。そういう手癖みたいなものがクリシェ化してしまうと、この人は壁にぶつかるかもしれない。そこを乗り越えてこそダンサーとして大成する人なのかもしれない。
いずれにせよ、今後への期待を抱かせてくれたという意味では、まさに「新人」としてこの企画に参加するのにふさわしい人だったと思う。。

前納依里子 『脱XXX!』

造形感覚がとてもクリアで、身体のコントロールも緻密になされている。たとえば、倒れこんで座り込み上半身を床に伏せた勢いで手を前方に投げ出したとき、手の指が手刀のようにそろえられ少し上向きに反らされているあたり、実現したいフォルムへの意識が明確なのだろう。横向きの姿勢で片足のひざを腹につけてつま先を前方に向けるポーズをとって、その足指をうごめかせるような振りにおいても、指の一本一本が正確にコントロールされているようだった。
そうした的確な技巧と緻密な構成は高く評価すべきだろうと思って見ていたのだけど、全体の構想としては、危機的な状況への不安、危機への直面、心的外傷を受けた状況の錯乱、そこからの癒しといった、通俗的すぎるというか、紋切り型のストーリーをなぞってしまっている。
少しずつ動きのモチーフを小出しに重ねていく冒頭の展開には、文化村のコクーンでデュオ公演した時のレスキスとか、カナールペキノワの時のジョセフ・ナジを彷彿とさせるような、まだヌーベルダンスという言葉が生きていた頃の往年のヨーロッパの舞台ダンスみたいなセンスだなあと思って好意的に見ていたのだけど*1、後半衣装を変えた後錯乱的に踊る場面では、リミットを越えないAbe"M"ARIA、といったところに収まってしまっているみたいで、あまり評価できないと思った。
ニュースかドキュメンタリー映画からサンプリングしたのか、英語で演説しているような音声が繰り返し使われていて、何か政治的な対立への参照を匂わせている。
少し前にお茶の水女子大学の卒業公演で前納依里子さんが作った舞台の写真がネット上に公開されていた。テイストとしては、この舞台写真の雰囲気から、この上演も感触がだいたい想像できるような感じだ。
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/463

*1:そのあたりの背景については、次のエントリーにまとめた。 コンテンポラリーダンスの二つの歴史(改題)+ - 白鳥のめがね

三条会の『S高原から』(1)

三条会の『S高原から』初日を見た。

三条会『S高原から』 平田オリザ 作 関美能留 演出

1月17日(日)14:00/19:00
1月18日(月)19:00
◆会場:下北沢ザ・スズナリ

◆出演:大川潤子、榊原毅、立崎真紀子、橋口久男、中村岳人、渡部友一郎、江戸川卍丸(劇団上田)、桜内結う、山田裕子(第七劇場)、浅倉洋介(風琴工房)、大倉マヤ、小田さやか(Ort-d.d)、工藤真之介、近藤佑子、鈴木智香子(青年団)、永栄正顕

◆チケット料金:前売3,300円、当日3,500円、学生2,500円 ※指定席です
http://homepage2.nifty.com/sanjokai/02.html


三条会を見るのは『ニセS』以来。約4年ぶりか。
『ニセS高原から』を全部見ておいて良かった - 白鳥のめがね

前回見たときは、戯曲から様式が離れすぎてまったく無関係に思えたのが疑問だったわけだけど、今回は、基本的に三条会独自の様式を基点にしながら、いろいろな角度から戯曲自体に迫っているように思った。

詳細は全公演が終わってからあらためて描写しつつ、戯曲と演出との関わり方について考えてみたいと思うのだけど、ひとつポイントになっているのは、戯曲の外側を埋め尽くし解釈を飽和させるような演出だったなということ。戯曲の外は、様々な水準で設定されているようにも思う。

そうした面で、平田オリザの戯曲に対する批評的なレスポンスとして考えてもいろいろ興味深い上演だった。

初日の上演に関しては、前半はすこしぎこちなかった気もするけど、後半は見事な盛り上がりを見せた。
特に、作中で村西とその婚約者の女性(大島)からの伝言を伝えに来る女友達(佐々木)とが面会する場面を演じた中村岳人と近藤祐子は素晴らしかった。中村岳人は、前半あたりでは、いかにも往年の青年団の俳優のような「装われたナチュラル」って感じの雰囲気を見事にかもし出していたけど、この場面ではかなり誇張した演技を、あくまで「装われたナチュラル」っぽい質感の延長線上に置いていたようだし、近藤祐子のテンション高いコケティッシュな存在感には独特の魅力がある。あの場面だけでも一見の価値あり。

その場面は、誰でも知ってるある交響詩を流しながら展開するのだけど、毎度おなじみでお家芸ともいえるクラシックの名曲に載せた場面の構築が今回も見事に決まっていた。曲の展開と緊密に対応した演技の組み立てから、一見恣意的でふざけているような演出も巧みに構築されたものであることがわかる。

戯曲の内側の情景を再現することに奉仕するのではない、戯曲から自立/自律したものとして上演を創造する「演出」という考え方は、20世紀の演劇史において様々に展開されたもので、三条会のスタイルもその系譜に位置付くとみて良いのだろうけど、戯曲に対するアプローチの幅という観点から言って、今回の三条会の上演は、ある種の成熟を感じさせるものだった。

シンチカ展

オオタファインアーツに出かけてシンチカ展(無料)を見てきた。

PV風のCGアニメの投影を中心に、モビールっぽく道路の反射板をぶらさげて、あとは音響と光だけで構成されたシンプルな空間だった。
ギャラリーでのインスタレーション的展示だけど、耳に心地よいビートと軽快な感触の音楽にのってループするナラティブはファミコン全盛期を主要なモチーフにしながら、若いカップルの夜のドライブとちょっとした遭難というシチュエーションをプロットに、生と死の断面、戦後的風景の記憶と危機的な状況への恐れが入り混じって切迫するような、今という時代の負債と可能性のかたまりを濃縮して示したような、センチメンタルな装いの奥に冷め切った時代認識を感じさせるもので、4周くらいループする10分くらい(?)のビデオを見ていた。

〜2010年1月16日(土)
11:00−19:00
会場: オオタファインアーツ
東京都中央区勝どき2−8−19-4B
大江戸線 勝どき駅より徒歩2分
Tel. 03-6273-8611
<NEWS>

言葉によって、ジャンルの枠組みから「解き放たれる」道を開くためにどういう語り方ができるのか、ちょっと考えたいと思った。

※関連リンク
【触れる】シンチカ - ex-chamber memo| 幕内政治がお届けする今最も旬な現代アートイベント情報|現代アート販売(通販)のタグボート
http://biseinosin.blog7.fc2.com/blog-entry-157.html

ポストダンスと言ってみる−ダンスみたい新人8(A)―

ディープラッツが毎年やってる「ダンスがみたい!新人シリーズ」の8回目、Aグループに荒木志水さんが(名前が荒木志津に変わるそうだけど)出ていたので見てみようと思って出かけてみた。
荒木さんの上演は荒木さんならこれくらいのことはやるだろうなという範囲だった*1その後の「やのえつよ」さんの上演が素敵だったので、そのことを少し書いておきたい*2。最近はダンスを見る本数も減っていて未知のダンサーと出会う機会もあまりなかったのではあるけど、運よく久々に、荒削りなままの才能の原石を見たなあと思った。

作品について

『シカク』というタイトルで、振り付けのやのえつよ本人と20代くらいと思われる女性ひとり、男性ひとりの三人による30分ほどの作品。公式にはアナウンスされてないけど、終演後、出演していた男性に声をかけて名前を確認した。男性パフォーマーは加藤律、もうひとりの女性は高橋京子さんというそうだ。

やのえつよさんが踊っている様子がYouTUBEにアップされている。

今回上演された作品の冒頭は、薄暗い明かりの中、やのえつよが後ろ向きに屈みこんでもぞもぞしている感じに動いているというシーンで始まって、ラストもやのえつよのゆったりとした動きのソロで締めくくっていて、感じとしては、このビデオの動きに近いものがあった。

でもその中間の展開は、ぜんぜん違う質感だった。
スラップスティック調の喜劇映画みたいに、三人並んで逃げているような身振りをしてみたり、それを、床に寝そべった姿勢で、天井から撮影すると走っているように見えるような仕方でバタバタと足を動かして見せたりするようなシーンもあった。

その後、加藤律*3によるソロのシーンがあって、それは、「まんじゅうの中から友達の声がして、拾い上げて中を見てみたら・・・」という語りをしながら、語りの内容にあわせて身体意識が変容するままに動くようなもので、語りがクライマックスを迎えた後には、無音のなか無言で舞台中を両腕を伸びやかに振り回しながら跳ね回っていた。
語りの言葉としてもコミカルで練り上げられたものだったので感心したのだけど、後で聞いてみるとなんとすべて即興だったという。やのえつよの指示に従ったソロの即興だったそうだけど、全体の構成において息抜きのようなアクセントを与えていて、コントラストが面白かった。チェルフィッチュニブロール以降のダンスと演劇との間の異種交配的な展開を当たり前のように自然体でこなせる世代という印象。
即興的に語りながら踊るというのは、ある種音楽での弾き語りにも近いような雰囲気もあり、僕などは「たま」の曲「学校にまにあわない」で披露される石川さんの語りみたいだなあなんて思ったりした*4。この路線には可能性が広がっていると思うのでぜひ突き詰めてほしい。

そのあと、わりとモダン/コンテンポラリーな振付のボキャブラリーを無造作に使った風な三人による群舞風のシーンがあって、その後すでに述べたoutro的なやのえつよのソロで締めくくられたわけだけど、その手前の3人で踊るシーンでは、すこしギクシャクしたような独特な質感を残す高橋京子さん*5のダンスも面白いキャラクター性を示すものだった。目覚しいほどユニークな振付というわけではないのだけど、ぶっきらぼうな風にも無造作に投げ出される角ばったポーズの決めが印象に残っている。

まだ乱暴な作りだったのかもしれないけど、僕からすれば、他のエピゴーネン的な連中の舞台作品にはない新鮮な感触が残った。

やのえつよさんのプロフィール
http://www.1-00ve.com/menu/member/yanoetuyo.html
*6

ダンスと運動イメージ

喜劇映画から仕草や動きを引用してコラージュするみたいなこの上演の作風を見ていて、この作品はDeleuzeが“Cinema”で語った「運動イメージ」(Movement-Image)の水準で諸々の要素が組み立てられているような作品だな、というようなことを思った。ならば、「時間イメージ」(Time-Image)的な水準のダンスというのも類比的に考えられるのかもしれないし、いわゆるコンテンポラリーダンスにおいては、いろいろな種類のイメージ形態が分類されないまま、めまぐるしく生まれては消えていたのかもしれない。あれこれ考えてみる余地はある。

Deleuzeは「運動イメージ」的に成り立っている映画の後に新しい創作のステージを切り開いた「時間イメージ」的な映画が現れたという風に映画史を読み換えて、20世紀に後者が開いた創造に固有な価値を称揚したというわけだろうけど、ここで大事なのは、「運動イメージ」的な水準に留まっているから作品として劣っているという風な発展史的な判断を差し控えることだろう。

単純に言えば、身体運動が、行為と行為の連鎖として、目的手段の連関のように連鎖する系列をなすのがDeleuzeが言う「運動イメージ」の意味なのだと思うけど、『シカク』という、やのえつよによる上演作品において重要なのは、そういう作用の領域で切り出されたいろいろな身体運動の要素が、動きの像(figure)として与えられていて、その視覚=触覚的なブロックが、無造作に継ぎ合わされていた構成の手つきのあり方だろう。
音楽や映像がデジタル編集されるのに近いような、飛躍や断絶をものともせずに無造作に切片を継ぎはぎしているような感触がある。

ポストダンス

この上演を見ていて、「ポストロックという言葉があったんだから、ポストダンスと言っても良いんだろうな」という風なことを思った。

原雅明さんの本を読んでいたら、ポストロックという言葉にはPost-productionという意味合いも響いているのだという風なことが書いてあった、つまりバンド演奏だけで成り立つのではなく、録音された素材の編集によって曲を構成するという志向がポストロックにはあったというわけだ。
「単なる思考ゲームではないアクチュアルな批評的態度と作法の裏打ちがある」─原 雅明『音楽から解き放たれるために』クロスレビュー

映像的な様式がダンスに影響を与えるというのは、おそらく今に始まったことではないのだろうけど、ネットによってダンス動画も手軽に公開でき、手軽に閲覧できるようになったことが舞台芸術に与えている影響は大きいと思う*7。アニメやCGキャラクターのダンスを見かけることもはるかに多くなっていることも無視できないだろう。

ニブロールが出てきた頃の印象と、『シカク』の印象の落差には、そういった状況の変化が如実に現れているような気もする。

ポストダンスという言葉を使っている人は居ないかなとGoogle検索してみたら、2000年に口頭発表されたらしい、次のような記事を見つけた。
Essay on screen Dance:Douglas Rosenberg
一部書き抜いてみる。

We have entered an era of post-dance, in which dance is displacing its own identity by eagerly merging with other existing forms and its own mediated image...

Douglas Rosenbergの作品も同氏のサイトでチラッと見ただけなのでこう書きながらRosenberg氏がどういう認識を持っているのかはまだよくわからないのだけど、上で引いた文章で言われていることにはあれこれ納得できる部分がある。
Douglas Rosenbergが主催するグループのサイト

ダンス作品として舞台に示される上演についてダンスの本質を想定してそれを尺度に評価するのではないような仕方でダンスを見て、ダンスを考える余地はまだまだ開かれたままに残されているのだろう。

『シカク』の上演は、ダンスの様式や技法も素材のひとつとして扱われているような印象をもつ。こうした舞台作家的な創造性は、ダンスという言葉からいったん離れて考えないと、十分な評価ができないのではないか、という風なことを思った。

ダンスから解き放たれるために

とりあえず、そんな風にポストダンスという言葉の可能性を考えてみたのだけど、僕が言いたいのは、ダンスの本質をあれこれ定義してみせて、それを基準にダンスの優劣を語るようなことは、もうやめにしてもいいんじゃないか、ということだ。
コンテンポラリーダンスという言葉が流通していたときには、ダンスの本質を問い直す議論も様々に伴っていたと思う。
あれこれの批評家が、こういうものこそダンスで、そうじゃないものはダンスじゃない、みたいな事をあれこれ言っていたのは、それぞれに固有の有益さもあったのだろうと思うし、実際に作り手や観客への挑発として創造的に機能した面もあるのだろうけど、ダンスの本質を限定しようとする性急な議論には限界もあり、そうした議論によって見失われた富も大きかったような気がする。
そして、コンテンポラリーダンスと伴って展開された新しいダンス批評がダンスシーンを一時的に活気付けた面はあるのだろうけど、シーンのあり方を制約した面もあったのだろうと思う。その功罪もひとつひとつ検討されるべきなんだろうし、ダンスについて批評的にコミットした人のそれぞれが、舞台ダンスの現状を規定しあってきたのだと考えるべきだ。

たとえばラバノーテーションでダンスを記譜すると、一人のダンサーの一見単純な振りの展開だけでも、オーケストラの譜面ほどの複雑さになったりする。様々な次元にわたる、複雑な舞台の総体は、常に記述しきれない情報に満ちている。

その多様さにおいて響いているものの素材レベルでどこまでも広がっている手触りに、もっと繊細で無前提な感覚を働かせることはできないか、と『シカク』の上演を見て、思った。専門外の気楽さであれこれ考えてみよう。

*1:まあ満足し、あれこれ考えさせられることもあったのだけど、映像の記録もあるのだろうし、私がここで記述したり評価したりするまでもないかなと思った。Web上に荒木志水さんのビデオはいくつかあるので、それも踏まえて荒木さんについてはちょっと書いてみたい気はする。

*2:もう一人の白井麻子さんは、振り付けとしてもダンスとしてもなかなか良くまとまったものだったけど、コンテンポラリーダンスの三つの概念―覚書― - 白鳥のめがねで書いたモダン/コンテンポラリーな保守本流という感じだったので、評価はその道の人にお任せしておきたい。

*3:ここに「こゆび侍」からの出演情報がある→http://blog.koyubi.chips.jp/?eid=957218

*4:即興の語りとして考えたら、「らんちゅう」での柳原さんの語りにむしろ類比すべきところかもしれないけど

*5:やのえつよさんとのつながりでいうと、この案内に出てくる高橋京子さんと同一人物だろうか?http://www.k2.dion.ne.jp/~kaeru25/cn24/pg124.html

*6:やのえつよさんは、徳久ウィリアムなんかとも競演してるそうで、新しい世代のジャンル横断的なシーンがゆるやかに形成されつつあるのかな、と思う。10/25 コンテンポラリーダンサーとのコラボ作品@三軒茶屋a-bridge: VOIZ 徳久ウィリアムのサイト

*7:実際、稽古場に持ち込んだノートパソコンでYouTUBEのさまざまな画像を見ながら動きのアイデアを探すということも若い世代では起き始めているようだ