三条会の『S高原から』(2)

三条会がこないだ上演した『S高原から』を初日に見たわけだった。
三条会の『S高原から』(1) - 白鳥のめがね
前回はパフォーマンスや演技の魅力に触れつつ語ってみたわけだけど、今回は演出のレベルでこの上演のよさについて考えてみたい。

平田オリザの『S高原から』は、何かわからない不治の病に冒された人々が過ごす療養所のような場所で、面会人や患者達が交わす会話を描いたもの。初演時は「近未来もの」だったが、設定上の近未来は2010年夏だった。

三条会による今回の上演は、原作戯曲のセリフだけをほぼ忠実に演技していったが、声に出された言葉以外の、上演要素においては、原作戯曲からかけ離れた様々なイメージを展開するという仕方で遂行された。

まず、舞台が教室に模された空間になっているのが、原作と大きく違う。『S高原から』の原作では、高原の療養所の待合室風の場所を再現するようにト書きで指示されているのを、教室に置き換えてしまっている*1

なぜか「携帯電話をおきりください」といった開演前のあいさつ抜きで舞台が始まってしまうのだが、その理由もすぐにわかる。

戯曲には、客入れ段階から役者が舞台上に居て、開演前にほんのすこしセリフのやり取りをするよう指示しているのだけど、舞台のセッティングの指示や開演前の何分頃にこんな小芝居をするといったト書きの指示も含めて、本来声に出されない開演前の演出を示したト書きがすべて一人の役者(兄妹の入院患者カップルの兄)によって声に出されてしまう。そこで、「まもなく開演します、携帯電話をお切りください」という案内もト書きに指示されているものを、上演開始後に、ト書きを声にだすその役者が声に出すことになる。

こうしたプロローグ的パートは、戯曲には一見関係なさそうな場面を描きつつ進行する。学生服を着たパフォーマーが一人ひとり入場してきたかと思うと、動物を模したスリッパを履いたスキンヘッドの男(前述の兄役であると後でわかる)が机の上に登って、飛び降りてみせて、それにあわせて、他の高校生風の出演者(入院患者のそれぞれを演じる)も机から飛び降りるという風な場面があったり、パレード風に入院患者以外の役(看護人や面会人)を演じる役者たちが列を成して入ってきたりする。

ここで、この上演の戯曲に対する戦略の基本はすでに読み取れるようになっている。たとえば、机から飛び降りることは、戯曲が繰り返しほのめかす死を暗示するようだし、看護人の男が背中に羽をつけているのは死後の昇天を祝福する天使のようだし、女看護人が鎌を手にして登場するのは死神の図像を連想させる。開演前から教室の机に置かれている花瓶もまた、死をイメージさせている。

ト書きという、本来上演では隠されている意図が舞台に提示されたり、上演ではほのめかされるだけの死のイメージがくどいほど強調されるのは、戯曲の外を描いてしまうようなことだ。上演という図がその外に陰画のようにしてそれぞれの観客の脳裏にほのめかすように浮かび上がらせるであろうようなものなのだろう。

上演のプロローグ的なシーンは、ほぼ同じような仕方で、エピローグ的に終幕で繰り返されるのだが、そこでは、作中で「風たちぬ兄妹」と呼ばれていた兄と妹が恋人のように感極まって抱き合っている場面を再現するように、その二人を演じた役者二人が抱き合っているシーンが演じられもした。原作戯曲では舞台の外で目撃されたと、舞台上に外から戻ってきた人々が語る光景だが、これは、「舞台の外で何か特別なことが起こっているのが目撃される」という、平田オリザ戯曲で繰り返されている手法への応接であると言える*2。平田戯曲のストレートな演出では、そうした「舞台の外」は、残響のように観客の想像の内に独特の感触を残して、それが、直接は描かれない。
こうした「舞台の外」の間接描写は、この戯曲で言えば「死」という出来事をめぐるテーマを立体的に浮かび上がらせるような、いささか文学臭のある装置として機能することを期待されているのだろうと思われる特徴ではあるのだけど、それを直接描いてしまうことは、平田オリザの戯曲に対する、ひとつの批評的な応接だと言えるだろう。
この手のテーマを補完するようなほのめかしというのは、解釈の余地を残し鑑賞の可能性を揺らがせるようでありながら、その余韻をわざとらしく感じさせる手つきにおいて、すでに解釈の方向は限定されているも同然である。
舞台に感情移入し、リアルにある場面に立ち会ったような錯覚にはめられた観客に、「自分が舞台上で見た以上の何かいわくいいがたいもののある舞台だった」といった感慨を抱かせるのを許すけれど、平田戯曲に仕組まれたこの手の「余韻」というのは、結局、「世の中には予想外のことも起きる」といった程度の、月並みな感慨を裏打ちする程度の範囲に収束するものであるし、戯曲のテーマとされるものを「図」とすれば、それに従属する「地」の輪郭を強調する程度のものに過ぎない。観客を馴致する作法と言える。この手の余地は、観客の享受に自由を残しはしないのだ。

この三条会の上演では、原作が、再現的な場面の外にほのめかすことで、観客がうっすらと想像するような内容や、無意識の余韻のように響くであろう様々なイメージを、先取りして埋め尽くしてしまう。

上の兄妹の抱擁もそうだけど、療養所の会話の中で「スパイダーマン」が出てくる場面、教室の隣り合った机でセリフが交わされている後ろの席に座っているスパイダーマンのマスクをかぶった役者が、これみよがしに「俺のこと?」みたいに驚いてみせる演技が注釈的に添えられていくのも、サブカルチャー的な言葉を会話に持ち込むことで観客の注意の拡がりを操作しようとする戯曲の意図を誇張して上書きすることで、戯曲の外を埋め尽くすような演出だ。

あるいは、看護人を呼ぶベルが鳴らされるたびに、学校の終業ベルが鳴り響き、死神のような女看護人が舞台に乱入して、そのたびに患者役の役者たちが地震に備えるように机のしたに隠れたりする場面がスラップスティック調に繰り返されるという演出もまた、戯曲のリテラルな進行に対する注釈のように機能しているわけだが、舞台の外から訪れるもの、舞台の外への呼びかけとしての、この戯曲の呼び鈴という装置が、テマティックな仕方で、死の訪れを待ち、死を迎え入れる空間を構成する仕掛けとなっていることを暗示するものだと解釈することもできる。いわば、無意識に観客が感じ取って、いわくいいがたい感銘として残るだろう呼び鈴にまつわるテーマ系を、これみよがしに描きつくしてしまっているわけである。

女看護人が、もう出番のない面会人の女性たちに、連続殺人鬼のように鎌をふりおろしていって、殺された風な面会人たちが遺体のように廊下のそとに倒れ伏していくという展開が、戯曲のリテラルな進行と平行して進んでいくのだけど、これもまた、原作戯曲が描く舞台の外に張り付いているような、不可避な死が偶発的に襲ってくるというテーマ系を強調して描きつくしてしまっているわけである。

この上演でさしはさまれた、原作戯曲に指示されていない様々なパフォーマンスや舞台表象は、一見恣意的であり、単なる悪ふざけのようにも見えるが、簡単に考えただけでも以上のように戯曲の主題に関連付けた解釈を許すものとなっているし、その構造は、舞台に明示されているだろう。

そのように、戯曲の行間からよみとれるテーマ系を転換したものとしてすべてを理解できるとしても、すべての解釈が一義的に収斂するわけではない。たとえば、医者役の役者が脚立の天辺に居ていろんな姿勢をとっていたりするいちいちが、戯曲のテーマと直接どのように関わっていたのかすべて明快に説明しつくせるのか、といったら、そうでは無さそうだ。

私が上に示したような解釈を、単なる辻褄あわせとみなして、異を唱える人も居るだろう。整合的に解釈できないと不満を述べるひとも居るかもしれない。私は、解釈が齟齬しても良いし、解釈しつくせなくても良いと思う。

この上演では、戯曲の外が様々な仕方で埋められているのだけど、そこには恣意的な思いつきも様々に含まれていたのかもしれない。演出家や役者のそれぞれにとっては、演技を彩る要素のそれぞれが戯曲から出発した発想であったのだとしても、その連想の道筋が、観客にはしっかり明示されなかったということもあるかもしれない。あるいは、戯曲のどのような構造がどのように転換されているのか、それは演出者や出演者にも明らかではなかったのかもしれない。

恣意的ではあれ、多様な解釈が可能な限り引き出され、舞台を埋め尽くすように投げ出されていたことが重要だ。

ただ、クライマックスとなるシーンで、スメタナの「わが祖国」の曲の展開にあわせて演技が展開するとき、一見関係のない戯曲と音楽の構造が、不思議と一致してしまうという妙技を見せられると、他の部分においても、普通は見えないような戯曲の構造を見出して、そこに絶妙にはまるものが慎重に選ばれているのだろうと想定されるわけだ。

原作戯曲が、まるで舞台がその場所であるように見せかけるだまし絵的なリアリズムに訴えかけながら、その外をほのめかしていたのに対して、この上演では、舞台の外にほのめかされるものも含めて、戯曲のテーマとなるものを手当たり次第に、過剰なまでに舞台の上に描きつくしてしまう。

そのことによって逆にこの上演は、原作戯曲が解釈を収斂させようとするほのめかしの内に、観客を馴致することで収斂してしまうような思わせぶりなテーマではないような様々な構造があることを観客に発見させてくれるようなものになっていたのだ。

その意味で、戯曲を多層的に解釈してみせた上演となっていたのだが、そのことは様式における多様性にもつながっている。この上演の舞台は、役者のそれぞれが多様な演技を載せても不思議と違和感のない場をなしていた。

そうした齟齬しあうような多様性は、観客にとっての見る自由を逆に保障するものになっていたのだろうと思う。

*1:机や椅子が学校風のものになっているほか、床には幼稚園ででもあるような、お花畑に虫が飛んでいるような絵が大きく描かれていて非現実的な空間になっている。塩ビパイプ風のフレームで、教室をなしている部屋の枠組みが示され、舞台上手には壁があって、その外に廊下があるという風に示している。そこに引き戸はリアリスティックに設置されているが、壁はフレームだけが示されるような抽象的な装置になっている。ほか、劇場の天井に届くくらいの脚立がひとつ立てられていて、下手の壁には数台の脚立がたたんで立てかけられている。あとは、劇場の壁がむき出しになっている。病院と学校が置き換え可能なあり方の場所である点は、イリイチが脱学校化・脱病院化を唱えたことを思い出しても、見やすい道理だ。更に、学校が成熟を保留する場であり、療養所が死を保留する場所であると考えるとしてみよう。古代において成人式が幼年の死と成人としての再生として成り立っていたという説(西郷信綱「鎮魂論」)にしたがって、この上演の置き換えを解釈してみることもできるだろう。

*2:そのことについては、次のように指摘したことがあった。神の裁きと決別するために/管見『コンプレックスドラゴンズ』++− - 白鳥のめがね