ダンスみたい新人8(J)(その寸評)

結局、3組を見て終わったダンスがみたい新人シリーズの8回目。私は元実行委員かつ元審査員なので通し券でご招待いただいてました、が。
では、最終Jグループの三組について、簡単にコメントしておきます。
http://www.geocities.jp/kagurara2000/s8.html

シュガーライス・センター『舞踏譜「演劇」報告書』

ハイレッドセンターにちなんだ命名なんだろう。佐藤ペチカさんが出るというので、この組のお目当てだった。
真っ暗な舞台に、懐中電灯をもった二人が明かりを互いに当てながら「何者だ?」「何者だ?名を名乗れ!」みたいな演劇のエチュードみたいな寸劇から始まる。そんなセリフを口走るように舞台を背をかがめてまろびつつさまよう男性ダンサーふたり。そこにあとから入場した佐藤ペチカさんは、やる気のないバレリーナみたいにふらふらっとバレエっぽい動きをしていると、男性ダンサーのひとりが「美しい・・・・」と言って懐中電灯をあてながら追い回したり。やがて「ちょっと休むか」と言って休憩したり「もう遅いから帰るよ」といって退場しようとして終幕だったり。基本的に喜劇的に軽妙なタッチであれこれの身振りやセリフが反復されるような舞台だった。出演者は顔だけ白塗りしてた。舞踏っぽいというよりは、道化師っぽくもある。
これも「ポストダンス的」と言っていいんだろうかとか思いながら見てた。たぶん、言葉や身振りの引用とか、無造作な併置や編集的な構成とかが、喜劇的な風な身振りがかみ合い折り合わされるモードと重なりあう地点があるんだろうな。この言葉に固執するつもりは無いけど、これもひとつのポストダンスなのかもしれない。

坂本知子/西村香里『なんとなく』

モダン/コンテンポラリー保守本流なデュオ作品。体が外から押されたり引っ張られたりするイメージが多用されていたようだ。それで腰をふり回したり肩を振り回す運動が、腕や足を投げ出す動きに連鎖して、玉突き的な動きが屈曲したりはじかれたりして動きが連なっていく。そういう動きに固有の美観や感触が踊ってる身としても心地よいのだろうなというのはわかる。ただ、それ以上のものは何もないように思った。そういう楽しみに飽きてから始まることもあるわけで。

石井則仁『とある一人の悲日』

とても技術がしっかりした人だなと思ってプロフィールを見たらこんな感じだった。

18歳からStreet Danceを踊り始める。22歳の時にこの世界へ飛び込む。
「Nomade〜s」 「大橋可也&ダンサーズ」 「BABY-Q」 蜷川幸雄宮本亜門などの作品に参加。

なるほどね。

前半はスーツ姿に悲しげな表情のシリアスな仮面をつけて、インダストリアル系のノイズっぽい曲にあわせて、束縛されたものの痙攣的な動きみたいなものを、パントマイム風に示していく。
終盤、スーツを脱ぎ捨て、仮面も外し、ブリーフ一枚になったところで、うごめく生き物といった風な、うねりのある、しかし切れのいい跳躍や屈折にもみちた、重厚で密度の高い動きを展開した。束縛を脱ぎ捨てて鋭敏になった感覚にはじめ苦しむけど、やがてその先に希望が見えるのか、みたいなストーリーがあるようだ。

全体として疎外とそこからの回復みたいな、いささか古臭く型にはまったモチーフにとらわれているみたいで、仮面の利用も含めて、むしろ古典的な作風でもあったけど、そういうわかりきったストーリーをなぞるダンスとしては、すこし冗長すぎた場面が多かった気がする。終盤の裸でのダンスには、あれこれ独特の造形感覚を感じさせるところがあったような気がしたけど、それは、僕がStreet Danceとかをあまり見慣れていないからそう感じただけのことかもしれない。

とても器用でよく舞台慣れした作り手だけに、そこそこ巧みに仕上げたみたいな作風には安住してほしくないな、という風に思う。とりわけ、暗転の多用には疑問を感じた。シーンを重ねたいという意欲はわかる気がしないでもないが、そういう映像的な演出というのは安易な手でもあるので、よほどの必然性が無い限り、禁じ手にしておいたほうがよい気もするのだった。安易な暗転とは違う攻めの暗転とか、どうしても暗転でなければならない転換というのもあるんだろうけど、いかにもそれっぽいクリシェと化した暗転というのは、ダンス的な緊張を弛緩させるだけに終わりかねないわけでね。