ポストダンスと言ってみる−ダンスみたい新人8(A)―

ディープラッツが毎年やってる「ダンスがみたい!新人シリーズ」の8回目、Aグループに荒木志水さんが(名前が荒木志津に変わるそうだけど)出ていたので見てみようと思って出かけてみた。
荒木さんの上演は荒木さんならこれくらいのことはやるだろうなという範囲だった*1その後の「やのえつよ」さんの上演が素敵だったので、そのことを少し書いておきたい*2。最近はダンスを見る本数も減っていて未知のダンサーと出会う機会もあまりなかったのではあるけど、運よく久々に、荒削りなままの才能の原石を見たなあと思った。

作品について

『シカク』というタイトルで、振り付けのやのえつよ本人と20代くらいと思われる女性ひとり、男性ひとりの三人による30分ほどの作品。公式にはアナウンスされてないけど、終演後、出演していた男性に声をかけて名前を確認した。男性パフォーマーは加藤律、もうひとりの女性は高橋京子さんというそうだ。

やのえつよさんが踊っている様子がYouTUBEにアップされている。

今回上演された作品の冒頭は、薄暗い明かりの中、やのえつよが後ろ向きに屈みこんでもぞもぞしている感じに動いているというシーンで始まって、ラストもやのえつよのゆったりとした動きのソロで締めくくっていて、感じとしては、このビデオの動きに近いものがあった。

でもその中間の展開は、ぜんぜん違う質感だった。
スラップスティック調の喜劇映画みたいに、三人並んで逃げているような身振りをしてみたり、それを、床に寝そべった姿勢で、天井から撮影すると走っているように見えるような仕方でバタバタと足を動かして見せたりするようなシーンもあった。

その後、加藤律*3によるソロのシーンがあって、それは、「まんじゅうの中から友達の声がして、拾い上げて中を見てみたら・・・」という語りをしながら、語りの内容にあわせて身体意識が変容するままに動くようなもので、語りがクライマックスを迎えた後には、無音のなか無言で舞台中を両腕を伸びやかに振り回しながら跳ね回っていた。
語りの言葉としてもコミカルで練り上げられたものだったので感心したのだけど、後で聞いてみるとなんとすべて即興だったという。やのえつよの指示に従ったソロの即興だったそうだけど、全体の構成において息抜きのようなアクセントを与えていて、コントラストが面白かった。チェルフィッチュニブロール以降のダンスと演劇との間の異種交配的な展開を当たり前のように自然体でこなせる世代という印象。
即興的に語りながら踊るというのは、ある種音楽での弾き語りにも近いような雰囲気もあり、僕などは「たま」の曲「学校にまにあわない」で披露される石川さんの語りみたいだなあなんて思ったりした*4。この路線には可能性が広がっていると思うのでぜひ突き詰めてほしい。

そのあと、わりとモダン/コンテンポラリーな振付のボキャブラリーを無造作に使った風な三人による群舞風のシーンがあって、その後すでに述べたoutro的なやのえつよのソロで締めくくられたわけだけど、その手前の3人で踊るシーンでは、すこしギクシャクしたような独特な質感を残す高橋京子さん*5のダンスも面白いキャラクター性を示すものだった。目覚しいほどユニークな振付というわけではないのだけど、ぶっきらぼうな風にも無造作に投げ出される角ばったポーズの決めが印象に残っている。

まだ乱暴な作りだったのかもしれないけど、僕からすれば、他のエピゴーネン的な連中の舞台作品にはない新鮮な感触が残った。

やのえつよさんのプロフィール
http://www.1-00ve.com/menu/member/yanoetuyo.html
*6

ダンスと運動イメージ

喜劇映画から仕草や動きを引用してコラージュするみたいなこの上演の作風を見ていて、この作品はDeleuzeが“Cinema”で語った「運動イメージ」(Movement-Image)の水準で諸々の要素が組み立てられているような作品だな、というようなことを思った。ならば、「時間イメージ」(Time-Image)的な水準のダンスというのも類比的に考えられるのかもしれないし、いわゆるコンテンポラリーダンスにおいては、いろいろな種類のイメージ形態が分類されないまま、めまぐるしく生まれては消えていたのかもしれない。あれこれ考えてみる余地はある。

Deleuzeは「運動イメージ」的に成り立っている映画の後に新しい創作のステージを切り開いた「時間イメージ」的な映画が現れたという風に映画史を読み換えて、20世紀に後者が開いた創造に固有な価値を称揚したというわけだろうけど、ここで大事なのは、「運動イメージ」的な水準に留まっているから作品として劣っているという風な発展史的な判断を差し控えることだろう。

単純に言えば、身体運動が、行為と行為の連鎖として、目的手段の連関のように連鎖する系列をなすのがDeleuzeが言う「運動イメージ」の意味なのだと思うけど、『シカク』という、やのえつよによる上演作品において重要なのは、そういう作用の領域で切り出されたいろいろな身体運動の要素が、動きの像(figure)として与えられていて、その視覚=触覚的なブロックが、無造作に継ぎ合わされていた構成の手つきのあり方だろう。
音楽や映像がデジタル編集されるのに近いような、飛躍や断絶をものともせずに無造作に切片を継ぎはぎしているような感触がある。

ポストダンス

この上演を見ていて、「ポストロックという言葉があったんだから、ポストダンスと言っても良いんだろうな」という風なことを思った。

原雅明さんの本を読んでいたら、ポストロックという言葉にはPost-productionという意味合いも響いているのだという風なことが書いてあった、つまりバンド演奏だけで成り立つのではなく、録音された素材の編集によって曲を構成するという志向がポストロックにはあったというわけだ。
「単なる思考ゲームではないアクチュアルな批評的態度と作法の裏打ちがある」─原 雅明『音楽から解き放たれるために』クロスレビュー

映像的な様式がダンスに影響を与えるというのは、おそらく今に始まったことではないのだろうけど、ネットによってダンス動画も手軽に公開でき、手軽に閲覧できるようになったことが舞台芸術に与えている影響は大きいと思う*7。アニメやCGキャラクターのダンスを見かけることもはるかに多くなっていることも無視できないだろう。

ニブロールが出てきた頃の印象と、『シカク』の印象の落差には、そういった状況の変化が如実に現れているような気もする。

ポストダンスという言葉を使っている人は居ないかなとGoogle検索してみたら、2000年に口頭発表されたらしい、次のような記事を見つけた。
Essay on screen Dance:Douglas Rosenberg
一部書き抜いてみる。

We have entered an era of post-dance, in which dance is displacing its own identity by eagerly merging with other existing forms and its own mediated image...

Douglas Rosenbergの作品も同氏のサイトでチラッと見ただけなのでこう書きながらRosenberg氏がどういう認識を持っているのかはまだよくわからないのだけど、上で引いた文章で言われていることにはあれこれ納得できる部分がある。
Douglas Rosenbergが主催するグループのサイト

ダンス作品として舞台に示される上演についてダンスの本質を想定してそれを尺度に評価するのではないような仕方でダンスを見て、ダンスを考える余地はまだまだ開かれたままに残されているのだろう。

『シカク』の上演は、ダンスの様式や技法も素材のひとつとして扱われているような印象をもつ。こうした舞台作家的な創造性は、ダンスという言葉からいったん離れて考えないと、十分な評価ができないのではないか、という風なことを思った。

ダンスから解き放たれるために

とりあえず、そんな風にポストダンスという言葉の可能性を考えてみたのだけど、僕が言いたいのは、ダンスの本質をあれこれ定義してみせて、それを基準にダンスの優劣を語るようなことは、もうやめにしてもいいんじゃないか、ということだ。
コンテンポラリーダンスという言葉が流通していたときには、ダンスの本質を問い直す議論も様々に伴っていたと思う。
あれこれの批評家が、こういうものこそダンスで、そうじゃないものはダンスじゃない、みたいな事をあれこれ言っていたのは、それぞれに固有の有益さもあったのだろうと思うし、実際に作り手や観客への挑発として創造的に機能した面もあるのだろうけど、ダンスの本質を限定しようとする性急な議論には限界もあり、そうした議論によって見失われた富も大きかったような気がする。
そして、コンテンポラリーダンスと伴って展開された新しいダンス批評がダンスシーンを一時的に活気付けた面はあるのだろうけど、シーンのあり方を制約した面もあったのだろうと思う。その功罪もひとつひとつ検討されるべきなんだろうし、ダンスについて批評的にコミットした人のそれぞれが、舞台ダンスの現状を規定しあってきたのだと考えるべきだ。

たとえばラバノーテーションでダンスを記譜すると、一人のダンサーの一見単純な振りの展開だけでも、オーケストラの譜面ほどの複雑さになったりする。様々な次元にわたる、複雑な舞台の総体は、常に記述しきれない情報に満ちている。

その多様さにおいて響いているものの素材レベルでどこまでも広がっている手触りに、もっと繊細で無前提な感覚を働かせることはできないか、と『シカク』の上演を見て、思った。専門外の気楽さであれこれ考えてみよう。

*1:まあ満足し、あれこれ考えさせられることもあったのだけど、映像の記録もあるのだろうし、私がここで記述したり評価したりするまでもないかなと思った。Web上に荒木志水さんのビデオはいくつかあるので、それも踏まえて荒木さんについてはちょっと書いてみたい気はする。

*2:もう一人の白井麻子さんは、振り付けとしてもダンスとしてもなかなか良くまとまったものだったけど、コンテンポラリーダンスの三つの概念―覚書― - 白鳥のめがねで書いたモダン/コンテンポラリーな保守本流という感じだったので、評価はその道の人にお任せしておきたい。

*3:ここに「こゆび侍」からの出演情報がある→http://blog.koyubi.chips.jp/?eid=957218

*4:即興の語りとして考えたら、「らんちゅう」での柳原さんの語りにむしろ類比すべきところかもしれないけど

*5:やのえつよさんとのつながりでいうと、この案内に出てくる高橋京子さんと同一人物だろうか?http://www.k2.dion.ne.jp/~kaeru25/cn24/pg124.html

*6:やのえつよさんは、徳久ウィリアムなんかとも競演してるそうで、新しい世代のジャンル横断的なシーンがゆるやかに形成されつつあるのかな、と思う。10/25 コンテンポラリーダンサーとのコラボ作品@三軒茶屋a-bridge: VOIZ 徳久ウィリアムのサイト

*7:実際、稽古場に持ち込んだノートパソコンでYouTUBEのさまざまな画像を見ながら動きのアイデアを探すということも若い世代では起き始めているようだ