POTALIVE再考(5) 芸能と祭儀と

PASでの車座対談以来、挨拶をすることも無かった武藤大祐さんと久しぶりに言葉を交わしたのは4月20日アゴラ劇場ロビーだった。
ダンス批評の武藤さんとかと20日に話す: 21=2009.05.06.−04.16.
ここ3年、4年くらいDMonWEBすら一切見ていなかったのだけど(最近ようやくちらちら見てはいたが)、武藤さんと岸井さんの対談にいろいろ触発されることがあり、最近武藤さんのネット上で読める文章をさかのぼって読んでいる。もう役に立つことがたくさん書いてあるのだった。たとえば次。

「芸能」はパフォーマンスであり、パフォーマンスは、パフォーマンスを自ら行わない人に対して行われるから、その場には行為者と非行為者とがいる。それに対して「祭儀」は全員が行為者で、何らかの形でそのイヴェントの構成に携わっている。「芸能」には反省(reflection)が介在している。「する人」と「しない人」が対立して、互いを否定し合っている(場合によってはむしろ、肯定し合っている。ここでは大差ないことだけど)。「祭儀」では、反省が介在しないというより、反省が起こっても明確な形を取りにくい。仮にほとんどの人が醒めている(反省している)ような状態だったとしても、全体の形式自体は保たれてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/mmmmmmmm/20071025

さて、祭儀といえば、岸井さんはたとえば自作についてこういっている。

ポタライブを最初に構想したとき、先行作品と考えたもののひとつにイヨマンテ(熊の霊をあの世へ送る日本の先住民の祭り)がある。3日3晩ノンストップかつ同時多発で村中でやる劇だ。多く神楽がそうであるように、全貌を人には拝めない。でも、彼らには観客がいる。熊だ。熊の霊に向かって演じるから、全体がひとつの劇になりうるのだ。

昔の人なら演劇の対象を神と言えただろう。しかし僕には安易に「神」とは書けない。じゃあ何かと聞かれても、よくわからない。存在に向けて、とか、死に向けて、とか答えるくらいなら、神といったほうがましなのはたしかだ。今は言語化できないけど、無視するなんてとんでもない。だって、それがないと、本当は劇にはなりえないのよ。
百軒のミセ: 『play away』 岸井+河村+伊東 (パフォーマンス)

武藤さんが図式的に芸能と祭儀を区分した整理*1を援用すれば、岸井さんが目指している演劇は、武藤さんが祭儀について「仮にほとんどの人が醒めている(反省している)ような状態だったとしても、全体の形式自体は保たれてしまう。」と述べているようなことを、まさに「それを実現するプロセスとして形式化する」こと、にあるといえるかもしれない。

しかし、武藤さんの議論自体、祭儀と芸能を区別しながら、その区別がどこまで保てるのかを自問しつつ、祭儀という形式のロバストな性格を指摘しているように見えるのだけれど、演劇を芸能よりも祭儀へと結びつけることにもまた、祭儀と芸能の区分が困難である以上の困難がある、と言えるのかもしれない。

ここからも、考え始めることができる。

*1:武藤さんの整理は共時的になされているが、歴史的な過程をそこに読み込もうとすると、いろいろ考えるべき問題があるように思われる