1080 個の粒子の揺らぎ ぼろぼろスポンジの時間

朴井明子さんが黄色い勢力さんとやっているダンスユニット「1080 個の粒子の揺らぎ」がセッションハウスのシアター21フェスに出るというので見てきた。2/5(土)。タイトルは「選択」。

公演が終わって、このことをどう書けるのかと作品のことをいろいろ思い返していたときに初めて気がついたのだけど、この上演は無音だったんじゃなかったか。

たいていの場合、ダンス作品の上演がはじまってしばらくたっても音楽が使われない場合、「無音だな」と気がつく。ダンスで無音というのは、やはりひとつのチャレンジなので、無音でつらぬく気なのか、それとも音を入れてくるのか、入れてくるならどんな風に仕掛けてくるのか、と身構えながらみることになる。

それが、今回は、無音であることに気がつかないまま見てしまった。いつも分析的に舞台を見る癖がついている私にしてはとても珍しい。いつもよりぼんやり見ていたというわけでもなかったのだが・・・。

いや、ひょっとしたら、作品について考えていたので気がつかなかっただけなのかもしれない。

舞台が始まる前に、床に白く細長い抱き枕みたいなものが横たえられる。
出演者は朴井さんひとり。

舞台袖から現れるときには、床にあるのと同じ形の白い抱き枕みたいなものを抱いて登場した。それで、抱き枕みたいなものが骨をかたどっているらしいことがわかった。

朴井さんは毛糸の帽子みたいなものをかぶっている。しばらくして気がついたけど、寝巻きに着るような灰色のトレーナーとズボンを裏返しに着ている。

白い骨みたいな抱き枕を抱きしめたまま、朴井さんは足踏みをしながら舞台の中央に出てきて、足踏みをしたままでいる。足踏みをしながら、あっちにふらふら、こっちにふらふらしている。

しばらくは、そのまま足踏みふらふらしているだけのようだった。
でも、とまどいともあせりともつかないような無表情に近い表情が顔から全身におよんでいるかのようでもあり、ふらふらと動きまわっているのはなぜなのかとつい考えてしまったりするのだった。
ふらふら動いているのは、ダンスとして考えるよりも、ある種のパフォーマンスアートに近いものとみなした方が良いのだろうか、などと。

朴井さんが舞台に立つ姿を見るのは二度目だ。
前回は、もう何年前か、STスポットの「ダンスラボ20」に出ているのを見た。スタイリッシュできびきびと派手に動き回る、切れの良い動きが変幻自在の舞台造形を繰り出してゆき、その軌跡の輪郭が際立ち際立ちしているような作品だった。

それにくらべて、今回の、もっさりとしたゆるゆるの時間はどうだろう。
あまりの変わりようにいささか驚き呆れるような気持ちにさそわれながら……しかし、前よりも、今の方がいい。
なんというか気取らず、無理せず、自由な仕事をしてくれている。そんな風に思いながら見ていた。

それで、「無音」に気がつかなかったという点に話をもどすと、いろいろと余計なことに気を取られていたことは確かだとしても、私としては、無音であることに注意を向けさせないような何か積極的なものが作品の中にあったのではないか、と考えてみたいのだ。

ひょっとすると、交互に二拍を刻み続ける足踏みのリズムが、ある種の音楽的な持続を作品にもたらしていたということなのかもしれない。
あまり目立たず、ほとんど意識されないような仕方で、足を上げ下げするかすかな音は、確実に耳に送られていたようにも思う。
いま思い返しながらも、作品を見ていた時間は、二拍のリズムの持続の中に浮かび上がってくる。もしかすると、足踏みが延々続いていたわけではなかったのかもしれないが、均等な二拍ではなく、しかし、二拍のアクセントだけは確かに続いているような、足踏みの感覚がたなびき続けている。
そのような印象を刻んだ時間の質を問題にしたい。そこに、無音を音の無さとして意識させないような積極性があったのではないか、と。

作品は、長い時間のふらふらの持続のあとで、後半、多少のドラマチックな展開を見せる。たとえば、ちょっと見比べたあとで、抱いていた抱き枕を捨てて、床に置かれていた別の抱き枕を拾い上げるようなアクション。「選択」というのはこのことか。
しかし、どちらも変わりなく、どっちを選んだっていいような二つの抱き枕の間に、どんなドラマがあるというのか。
なんだか肩透かしを食らったようでもあるけれど、どうでも良いことにほんの少しだけ捉われてしまっているような感じが一連の動きの中に見て取れるようだ。

後半には、多少の振りも入ってきて、ちょっと普通のダンスっぽくなるところもあった。それも、ちょっとだけ手を回したり左右に動かしたりする簡単でそっけない振りであって、気合入れて踊っているという風なものではなかった。

やがて、舞台の隅にとことこと流されるように漂っていって、下手の壁に口付けるような仕草をしながら、頬や口の周りが壁に触れる感触をなんとなく楽しんでいる間に作品のことなど忘れていってしまったというかのように、舞台から朴井さんは去っていって、それで作品は終わりになる。

あれ、抱き枕は最後持っていたのだろうか。思い出せないけれど、それはどうでも良いことか。

作品の時間を辿りなおしながら思うのは、ある種の浅さを保ち続ける時間の質である。浅いけれども、離れることはできないような場所、いや、むしろ、少しだけ留まりながら、しかし、はがれて消えていってしまって、堆積していかない時間。途切れることだけが継続しているような時間。

・・・・と、ここまで書きかけたまま数日この文章を放置していた。自分の感覚の描写を展開するのに、あまりに抽象的な領域に迷い込みすぎているような気もする。

おそらく、少なくとも作品構成のレベルとパフォーマンスのレベルという二つの階層で、私が感じたような時間の質を生み出す要素があったはずだ。

それを具体的な舞台上の要素に還元して論ずる用意は今の私には無い。想起するなかで、作品のディテールが私の印象の原因として浮かぶ上がるようなことが無いのだ。おそらく、そこにも、このグループの上演がある種の人に「よくわからない」という感想をひきおこす理由があるのだろうと思う。

角度を変えよう。別に、受けを狙っているわけでもないのに、どこかユーモラスで、しかし作品としてもパフォーマンスとしても、なんだか生真面目に作られているようでもあって、爆笑はおきないけれど、終演するとくすくす笑いが漏れている、そんな公演でもあった。

なんだろう、私はくすくすと笑いながらも、それが止まらないというのでもなく、笑っているような、笑わされているような、自分の笑いのきっかけは自発的に生じたもののようでもあるけど、笑い続けているのは自分の意志による作為でもあるかのような、奇妙な感覚に終演後捉われていた。

もしかすると、個人的に朴井さんや黄色い勢力さんと多少の面識もあるので、そういう要素が自分の笑いに、ある種の支持の意識をにじませていたのかもしれない。

そういう留保をおきながらも、くすくす笑いの質と、浅さの持続のような時間感覚の質とを、同じ相において捉えたいという思いに、今、この文章を書きながら、駆られている。

ほんとうは、こんな風に重苦しい語り方はしたくはない。なにか、もっと無根拠で軽率で、しかし真摯な遊びのようなものが達成されていたのではないかと思う。そこですべての誠実めかした不誠実のしがらみの箍がすべてゆるんでゆくような。

一言で言えば、作品においても、パフォーマンスにおいても、組織化を行わないような上演の造形がなされていた、ということになるだろうか。

二拍子の足踏みは、ふらふらと揺らぎながら、そのつどに、舞台の関節をゆるめ、すべてを脱臼させるように働いていたのではないか。

そのふらふらは、均質化された所作を碁盤目状に仕切られた時空間のなかに割り振ってゆくような、ほどほどの創造性をうなずきあいや笑いを伝播させたりするコミュニケーションの空間のなかに飼いならすようなものとは別の、もっと自由で、どこまでものがれさってゆくような、運動だったのだ。

こうして、ふらふらの二拍子は、脱分節とでもいえるような仕方で、あの日のセッションハウスのひとときを、ゆるいスポンジがぼろぼろとくずれてゆくようなものへと変容させているのである。

・・・・こうして書きながら、その作用の領域にこの文章はたいして近づけなかったかもしれないし、その時空間のふらふらと崩れる仕方がどのように可能だったのかを解き明かすことが結局できなかったという、それだけのことを告白するだけで終わっているのかもしれないけれど。



この上演と、小堀夏世の公演との、とても似通いながらも決定的な違い、ということを語ってみようかと少々書き付けてみたりもしたけれど、あまりにマイナーな話かもしれず、粗雑な対比しかできそうにないので、北海道にかえってしまったという小堀夏世関連の小リンク集を追加するだけにとどめておこう。

http://www.owarai.to/440/6/kiroku.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~hinden/live/family.htm
http://www.ask.ne.jp/~pratze/free_news/adachi.html

それと、この日の21フェスには竹部育美さんも出ていて、その作品にかなり心を動かされたので、そのことについてもいずれ書いておきたい。