近代日本語に弔いを 2.2/もう誰も読まない石碑

自分は幼いころ、鳩ヶ嶺八幡宮という神社の境内の脇にある家に暮らしていた。神社の境内が遊び場だった。
http://www.ii-s.org/nikki/P8270423.jpg*1

住んでいたのは木造二階建ての古い建物だった。物心ついてから聞いた話によると、昔は神社の参拝客のための宿舎になっていた建物が、借家として貸し出されたものだったという。かつては遠方からの参拝客もあったのだろう。考えてみると、戦前くらいまでは遠くからの参拝客があったのかもしれない。遠州街道、秋葉街道の起点だというし、神社の前には古くからの宿場町のようなものも残っている*2。田舎にしては、それなりに大きな神社だったのだろう。

友達の家は、江戸時代から続く街道沿いの建物だった。江戸時代には薬屋だったというその家の、薄暗い屋根裏には太い梁が幾重にも重なっていて、その下の土間のところで何度も遊んだものだ。

鳥居を入ってすぐのところ、参道の脇に、大きな池があって、鯉がたくさん泳いでいた。真ん中に作られた島には、鶴と亀の銅像があって、夏には鶴のくちばしが噴水になった。

その池の脇に、すこし小高い丘のようになった場所があって、そこには3〜4メートルはありそうな、高い碑が立っていた。つやの無い、黒くそそり立つ大きな石の板だった。何か読めない文字が書かれているのを不思議とも思わないでいつも見ていた。

小学校に上がるころには、そこからすこしはなれたところに両親が家を建てて引っ越した。小学生の頃もよくそこで遊んでいたけれど、やがて足が遠のくことになった。

大学生の頃、ふと子どもの頃遊んだ場所をもう一度見てみたくなって、この八幡様にも行って見た。子どもの頃には、そこにあって当たり前と思っていた碑が、明治時代に建てられたものだとわかった。漢文はよく読めないけれど、位階のことが何か書かれていたので、地元の偉い人を顕彰する碑であるらしいことがわかった。

何か大事なことを伝えようとして書き残された漢文が、もう誰にも読まれることなく、ただなんとなく大事なものとして、放置されていることに、何か良くわからない感銘を受けた。残念というのとも違う、途切れそうなかすかなつながりに何故か心が高揚するような気分だ。

そして、誰も読まないような明治以降の漢文の碑の類は、すこし離れたところにある城跡だとか、いろいろなところに遺されているのに気がついて、夏休みなどに帰省するたびに、実家の近所を自転車で走り回っては、そんな碑の類を見つけるたびに、良く読めもしないのに、その文字を目で追ってみたことがある。

何か、郷土の歴史を碑で顕彰するようなことが流行った時期があるらしい。ある種、Nationalismに束ねられていくような愛郷心(patriotism)の発露なのだろう。そうした地域の歴史を漢文で綴った同じような碑を建てられているのを、たとえば石神井公園だとか、今住んでいる場所の近くでも、旧跡の傍に見かけたことがある。そうした碑は、今では草に埋もれて省みられていないことも多いようだ。

なんとなく、江戸の漢文的な教養が明治初期にも払拭されずに残っていたように思い込んでいたけど、『漢文脈と近代日本―もう一つのことばの世界 (NHKブックス)』を読むと、明治初期には江戸時代よりも漢文がより広くより盛んに読み書きされる風潮があったようだ。Nationalism の高揚に漢文が果たした役割も大きかったらしい。

そうしたことが気になっていたので、先日図書館で『文学』誌の日本漢詩特集を借りてすこし読んでみた。

文学 2009年 06月号 [雑誌]

文学 2009年 06月号 [雑誌]

巻頭には漢詩文研究の第一線で活躍しているらしい学者たちによる座談会が掲載されていたのだけど、そこで池澤一郎という人が、漢詩文の研究の道に入ったきっかけについて、こんなことを語っていた。
高校生の頃、漢文担当の橋本浩正という先生に連れられて、上野の美術館で開かれたある中国陶器の展示を有志で見に行った、その帰り道の話だという。

谷中の墓地を歩いて回ったんです。その先生が、すごく大きな碑の前で立ち止まって、白文をすらすらと読んだ。なんだこれは、と思いました。それまでは文字のある墓碑の前も通り過ぎていたのですが、いろいろ面白いことが書いてあるんだなと気付いたのです。そのときの感動が原点です。幼い頃にお墓参りに行ったら、自分の祖父が、「葷酒山門に入るべからず」と山門脇の石柱の漢字を訓んで、こういう意味だよと教えてくれたときの感動とつながって、それが核になって漢文訓読が好きになっていきました(p.36)

同じ座談会では、アメリカの大学が発端になって、世界の若手研究者を集めて続いている漢学研究ワークショップの様子も報告されている。中でもアメリカの研究者が熱心に参加していて、「彼らは日本を研究するなら漢学から入らなきゃという頭がある」(佐藤道生)という。

おそらく、いわゆる「漢文の素養」がないとわからない教養の世界が、ほんの二、三世代ほど前には、日本の文化的世界を大きく動かしていた。明治期に漢文学が衰退するのは、日清日露戦争以降のことだというけど、国学を権威に据えていくような国文学がNationalisticに漢文学を日本文学史から退けて行くいきさつがそこに伴っていたというわけだろう。

明治時代の人たちは、石碑に漢文で顕彰文を綴ることで、彼らの事跡を歴史に残せたと信じただろうが、まさかそれが、ほんの100年ほどで、専門家でなければ読めないようなものになって、一般人の目に触れないようになってしまうとは、思わなかったに違いない。

このような、過去の文化的世界の徹底的な破壊と忘却のリズムによって、日本の近代化は進んできたのであって、いわゆる歴史的仮名遣いの定着もまた、漢文学的な世界をはじめとしたかつての文字の世界の破壊と歩みを共にしてきたというわけだ*3

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*1:写真:http://www.ii-s.org/nikki/logs/post_314.html 参照http://gallery.nikon-image.com/119155186/albums/1682120/http://www.shinshu-liveon.jp/www/tourism/node_34958

*2:http://www.cbr.mlit.go.jp/iikoku/e-koku/nanshin/mukashi/enshu.html 遠州街道 http://www.tohyamago.com/rekisi/akiba_tousin/index.html

*3:歴史的仮名遣いも、たとえ復古的であったとしても、それもまた人工的な産物にほかならず、様々に多様な文化的世界を抑圧してきたことには、変わりはない