近代日本語に弔いを 2.211/ドラマ『坂の上の雲』から読み替える近代

坂の上の雲』がNHKでドラマ化されて最近放映されている。司馬遼太郎が書いたこの小説にはナショナリズムを煽るところがあるのは、すでにあれこれ批判済みのことだけど*1、ドラマにおいても、温和でエレガントな演出ながらナショナリズムの再生産はしっかりとなされているなと思いつつ、楽しんで見ている。

http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/
スペシャルドラマ坂の上の雲/NHK 松山放送局|坂の上の雲

小説の方は読んでないので知らないが、ドラマで正岡子規をモデルにした登場人物*2が「俳句の革新をするんだ!」としゃべったりするシーンを見た。これ、わかった上で、時代考証的には不自然なせりふを言わせる脚本になっていると思うのだけど、ナショナリズムの虚構を強化する作用のある処理だと思う。

「俳句」という用語自体、正岡子規が「俳諧」を革新するために新しい意味合いをこめて使った言葉だった。俳句という語について辞書を引くと、次のようなことが書いてある。

俳諧の句」を略した語で、もとは連句の各句をもさしたが、明治中期、正岡子規俳諧革新運動において、旧派の月並俳諧における「発句」に抗する意図でこの語を使用したことから、一般化し定着した。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E4%BF%B3%E5%8F%A5&enc=UTF-8&stype=0&dtype=0&dname=0ss

実際に子規がどんな風にしゃべったか知らないし子規の俳論もいま確認はしてないので大雑把な話で恐縮だけど、「俳諧の発句」を「俳句」と言い換えることで、正岡子規はある伝統を切り捨てたわけだ。
ドラマだと、まるで現在まで連綿と続いている俳句というものを子規が革新したみたいな描き方になっている。文芸の上での江戸と明治の切断や不連続よりも、想像上のナショナルな連続の方が強調される、そういう効果をもたらす描写が選ばれている*3

もうひとつこのドラマが省略している断絶を指摘しておくと、それは、明治の初期に漢詩文が隆盛を誇っていたということだ。

『漢文脈と近代日本』を読むと、私たちが漢文について持っているイメージ自体が、江戸から明治にかけての一時代の産物であることがわかる。
近代日本語に弔いを 2.13/谷間に響く詩吟の近代 - 白鳥のめがね

と以前書いたのだけど、同書を読むと、江戸後期から明治前期までを「漢文脈」が隆盛したひとつの時代として括ることができるようだ。

おそらく、明治前期の「漢文脈」が見失われる過程は、日清戦争の帰趨が大きな影を落としていると思う。日清戦争の勝利をきっかけのひとつとして、日本文化の伝統から漢文脈の果たした役割を排除しようとする見方が強化されていったのだと思う。

史実がどうだったか知らないけど、清国の海軍の偉い人と日本の海軍に属する主人公が英語で会話する場面をことさら描くというのは、当時日本と清の間でわりと普通だったという漢詩文による交流を忘却させるような描き方になってはいないだろうか。

日清戦争以前、日本の知識人と清朝末期の知識人が士大夫意識を共有しながら漢詩文によって交流していた歴史があったことが、ドラマ『坂の上の雲』では、歴史の闇に沈められてしまう。漢文脈の忘却によって日本の文化に断絶があったことが忘れられることで、日本の伝統が連続しているというイメージが、フィクションにおいて強化されるわけだ。

(続く)

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*1:高橋哲哉による加藤典洋敗戦後論」批判をきっかけにしたナショナリズムの再考や「つくる会」をめぐる議論などの文脈で、左右双方から「司馬史観」批判があった。検索してみると、当時私が読んだ覚えがあるのは次のものだった「成田龍一司馬遼太郎の歴史の語り―『坂の上の雲』をめぐって」小森陽一高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会98年pp.69-84」(http://homepage3.nifty.com/htaguchi/sub02/list-sensousekinin.html) そのほか、司馬遼太郎批判に関連してみつけたサイトを参考までにリンクしておく。 高橋誠一郎「司馬遼太郎の教育観―『ひとびとの跫音』における大正時代の考察」」 NHKドラマ化、司馬遼太郎『坂の上の雲』の問題点――半沢英一『雲の先の修羅』 早尾貴紀:本のことなど/ウェブリブログ ナショナリズムを学ぶ - 見もの・読みもの日記 http://anti-kyosei.blogspot.com/2009/11/blog-post_25.html 「司馬史観をどう見るか」中村政則氏の講演の要約

*2:小説ファンのためのサイトから、子規をモデルにすることについて考える材料をいくつか:http://www.sakanouenokumo.jp/shiki/ http://sakanouenokumo.hp.infoseek.co.jp/siki.htm

*3:これは、演出上スムーズにドラマを描くために選ばれた処理であって、いちいち俳諧だの俳句だのの説明を入れたらまだるこしくなるから説明を省略しただけだ、という擁護論もありえるかもしれない。だが、ここで私は、作り手の意図がどうであろうが、ドラマがもたらすと想定できる効果について指摘している。俳諧と俳句の連続と断絶を知らず、すぐにはそれを理解できない視聴者が一般的であることを前提に脚本を作ること自体が、俳句の名の下に進められてきた国民的な運動に伴うナショナリズムを無批判に追認しているということだ。作り手の意図はどうあれ、これはナショナリズムへの加担であると言える。参考リンク:司馬遼太郎「坂の上の雲」では正岡子規さんは旧態依然として日本のそれまで... - Yahoo!知恵袋