近代日本語に弔いを 2.212/日本文学は日本語文学なのか?
江戸後期から明治前期までを「漢文脈」が隆盛したひとつの時代として括ることができるようだ。
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そのあたりの話を、『漢文脈と近代日本』を抜書きしながら紹介したい。
漢文脈と近代日本―もう一つのことばの世界 (NHKブックス)
- 作者: 齋藤希史
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2007/02
- メディア: 単行本
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齋藤希史氏は、寛政二年(1790年)に松平定信が昌平坂学問所で朱子学だけを教えるよう定め、それをきっかけに各藩での教育が体系的に制度化されたことを、ひとつの転換点として、それ以降、漢文が大きな力を持つようになったと指摘する(p.48)*1。
漢文的な思考や感覚の普及ということで見れば、近世の半ばごろを境にして、状況は大きく変化します。文体のみならず、思考や感覚のレベルで漢詩や漢文が大きな力をもつようになったのです。漢文脈のうねりが起きた、と言ってよいでしょう。そしてそのうねりこそが、近代という時代を用意したのです。
しかし、近代日本という時空間は、文体にしても思考にしても、漢文脈に支えられた世界を基盤に成立すると同時に、そこからの離脱、あるいは解体と組み換えによって、時代の生命を維持しつづけようとしたのです。(p.4)
そのような観点から、齋藤氏は、「漢文脈」という用語で、近世半ばから明治前半までの漢詩文の歴史を物語り、メディアとしての漢詩文の機能を分析していく。その叙述は、社会史的、心性史的な領域まで及ぶものになっている。
その巧みな語り口と洞察の面白さについては、直接本を見ていただくとして、江戸から明治にかけて、日本で書かれ読まれた漢詩文が清国と持ったかかわりについて抜書きしておきたい。
この本では、明治維新を経て、訓読文から明治の新しい文体が確立していく流れのなかで、『日本外史』がたどった奇妙な歴史を詳しく振り返っている。その論旨の中心は、声と文字のメディアがいかに社会的に構成され定着していくかという複合的なプロセスを描くことにあるのだけど、そこから、まず清でも『日本外史』が読まれていたことを紹介するエピソードをひろっておきたい*2。
『日本外史』は清朝光緒元年(一八七五)に中国広東でも出版されているのですが、その序文に「至其筆墨高古、倣之左氏以騁其奇、参之太史以著其潔、可不謂今之良史哉[その文章は古えの風格があり、左伝に倣って文章の起伏を富ませ、史記の風格をまじえて高潔さを示している。まことに今の世のすぐれた史である]」と称されている
(p.62)
頼山陽が書いた漢文が中国でも賞賛される質のものだったというのだが、なぜ、そういう質の文章が書かれたのか、そこには、漢文こそが普遍性にアクセスできるメディアだと意識されていたという背景があったと齋藤氏は述べている。
山陽にとっては、平俗さはもちろん重要でした。しかし、それも普遍的な価値の裏付けがあってこそだったことを忘れるわけには行きません。日本人のために書くのだと言いつつも、ただ日本で通じやすければよいというものではなかったのです。(p.90)
漢文の文体に普遍的な価値が見出されていた、そういう、中国大陸の文明と帝国の影響によって成り立った東アジアの文化状況のなかで、日本の漢文脈は、一時期、清朝と日本の知識人の間で相互交流が進むメディアになっていったわけだ。それは、両国の間での相互変容を伴うものだった。
中国においては、清朝末から中華民国にかけて活躍した改良派の政治家でありジャーナリストである梁啓超によって、日本の新漢語が多く導入されたことが知られていますが、そのときの梁啓超の文体もまた、従来の古典的な漢文から、新文体と呼ばれる一種独特の文体に変化を遂げていた
(p.107)
齋藤氏によると、明治維新後、漢詩文は江戸期よりも盛んになったのだという。
木版印刷から銅版さらに活版と印刷技術が進むにつれて、むしろ、漢詩文の書物は近世よりも大量に出版されるようになりました。(p.119)
漢詩を作ることについても、明治になっていっそう盛んになったと言ってよいほどです。(p.120)
そうした状況において、当時有名だった漢詩人、森春濤がいまや頼山陽ほどにも知られていないことについて、齋藤氏は「制度としての近代日本文学史の偏りを示している」(p.120)と述べている。
日本文学史を日本語文学史と思い込むことで、日本列島の社会においてある時代に広く行き渡っていたある種の心性がすっかり見失われてしまうわけだ*3。
近世後期において、士族階級を中心とした漢学教育が、各藩それぞれ競うようなかたちで全国に普及していた:::略:::文藝としての漢詩もまた、大衆的な拡がりを見せていました。各地に詩社(詩作のサークル)があらわれて在地の詩人と愛好家たちの拠点となっていたのです。また、文化四年(一八〇七)に第一巻が刊行された『五山堂詩話』は、菊池五山が同時代の漢詩を中心にとりあげて、批評を行ったものですが、これも年一回のペースで続巻を出版し続けて十巻:::略:::に及んでいました。言ってみれば、全国規模で流通する時評もまた、成立していたということになります。:::略:::春濤が詩名を望み、ついに博し得たのも、そうした状況に支えられていたのです。
(pp.122-123)
明治七年(一八七四)年、春濤は岐阜から東京に居を移し、精力的に詩壇活動を始め:::略:::詩文専門の月刊誌として『新文詩』を創刊します。明治期には詩文雑誌が数多く刊行されるのですが、その嚆矢とも言えるものでした。:::略:::『新文詩』誌上には、いわばプロの漢詩人:::略:::のみならず、アマチュアたちの詩も多く載せられました。目立って多いのは明治政府の高官であり、伊藤博文や山県有朋などの名も見えます
(p.124)
明治政府の高官が漢詩に興じた背景を、齋藤氏は次のように解説する。
政治の外の世界、文化とか風流とかいうものにも通じていることが、教養ある知識人として必要だったのです。政治家は知識人ないし教養人であるべきだという観念は、東アジアの伝統として、まだ生きていました
(p.129)
森春濤と同じ塾で学んだ幕末から明治の漢詩人に大沼枕山という人がいたという。大沼枕山は、漢詩人としての世俗の成功をもとめた森春濤とは対照的に、「酒の世界にひたった古人と同じように、世間に背を向け、別天地の中で生きようと」した(p.134)。
「近藤勇の詩を添削した」(p.133)*4という枕山は、永井荷風と縁続きなのだそうだ。
永井荷風は『下谷叢話』で、「ついに世に背を向けたまま亡くなった枕山に自らを重ね合わせていることは、しばしば指摘されている」(p.140)
永井荷風の父永井久一郎は、「詩を大沼枕山に、洋学を慶応義塾で学び」(p.176)「森春濤らと交わった漢詩人」(p.181)でもあった。永井荷風の文学に与えた久一郎の影響について、齋藤氏は次のように叙述する。
子供の時分、わたくしは父の書斎や客間の床の間に、何如璋、葉松石、王漆園などといふ清朝人の書幅の懸けられてあつたことを記憶してゐる。父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交(まじわり)を訂(さだ)めて居られたのである。(「十九の秋」)
何如璋は明治十年(一八七七)に初代駐日公使として清国公使館に着任した人物として有名ですし、葉松石は明治七年に外国語学校の教師として日本に招聘された文人で、帰国の後、日本に再遊し、大阪で客死しました。王漆園は王治本と呼んだ方が通りがいいと思いますが、書家であり、詩も善くし、日本各地を訪れています。:::略:::久一郎は、これら清国の士大夫との交遊を結び、わが家のために書を揮毫してもらったというわけです。
:::略:::明治四年の日清修好条規によって、清国との往来がさかんになったことが、日本における漢詩漢文のありかたに大きな変化をもたらした:::略:::明治日本の開国は、アメリカやヨーロッパに対しての開国であると同時に、中国に向けての開国でもあった
(p.182)
こうした清国と明治日本との交流については、次のような逸話も紹介されている。
清国に渡った岸田吟香が、清の知識人に漢詩のアンソロジーを編集してもらったというのだ。
有名な学者であった兪樾に日本人の漢詩集百数十家を渡し、よいものを選定して詞華集を編んでほしいと依頼しました。兪樾は五ヶ月かけてこの仕事に取り組み、明治十六年の春:::略:::完成したのです。(p.184)
清国駐日公使館が積極的な文化活動をしたこともあって、詩文書画を通じた日清の交歓は、明治の前半を特徴付けるものとなりました。明治漢詩の隆盛の一端がここにある (p.184)
こうした、江戸時代の制度のうえになりたった、明治前期の国際性があったということを、この本を読んで初めて知った。近代化のプロセスで残された今の日本のイメージが、どのような断絶や忘却の上に成り立っているのかについて、この本は、有益な示唆を与えてくれるものだと思う。