プロペラの「夏の夜の夢」

東京芸術劇場野田秀樹一色ですね。さて、エドワード・ホール率いる英国の劇団「プロペラ」の来日公演、「夏の夜の夢」を見てきました(ソワレ)。

「夏の夜の夢」はこのあいだ新国立劇場で見たばかり。
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000068_2_play.html
プロットは覚えているので、英語の台詞の響きを聞いてみたかったこともあり、あえてイヤホンガイドは無しで舞台を見てみた(字幕は無し)

男ばかりの劇団ってことで、当日パンフレットに野田学氏が「ゲイ演劇」という枠組みをほのめかすようなことを書いていた*1でも、そういう見方は全然しなくても見られる感じ。

女性役を演じる役者も何故かスキンヘッドだったり短く刈り込んでいて、衣装だけ女装してたりするのだけど、そういう奇矯さにはじめ笑っていた観客もいたけど、見ていると、可憐な演技に違和感を感じなくなっていった。

たとえば、ロバに変身させられる場面で、新国立版では、良くできた被り物を使っていたのだけど、今回のプロペラ版では、耳のような形のついた帽子で象徴的にしめしていた。更に、長い性器みたいな詰め物みたいなものをベルトで股間にぶら下げてたりした。新国立版だと、ベットインの演技みたいなもので示唆していた性的なものを、象徴的に表しているわけだ。そのあたり、でも、喜劇的な粗野さみたいなものをあっけらかんと手作り的に示してみせる方が、シェイクスピアに忠実なんじゃないだろうか。後半、でっかくオナラするシーンなんかもあったけど、喜劇としてはむしろそれが正統であるとも言える。

まあ、新国立版もジョン・ケアード演出ということで、どちらもイギリスの正統を汲んだ演出ということなのだろうか。キャラクターの解釈とか、だいたい印象が同じ感じだった。惚れ薬で若い二組のカップルが入れ替わりの喜劇みたいな展開になるところの、口汚いののしりあいとか、ほとんど同じ雰囲気だった。かたや、日本語を話す男女、かたや、白人黒人混合の男ばかりの劇団と、大きく違うのに。女同士が初め互いに貞淑にしてたのに、諍い始める感じとか、そっくりなんだな。

それでも、一番大きく異なるのは、夢から醒めた場面の演技だ。プロペラ版だと、夢から醒めて、「我に返った」場面でのそれぞれの役者の演技が、ほんとに、素に戻ったみたいな、それまでのトーンとは全然違う、落ち着いた響き、芝居がかっていない響きになっていた。だいたい、この戯曲を見ようと思ったら、そこの演技がどうなるかを期待するのが当然というもの。そのあたり、どこか戸惑いながら、まるでそれまでの騒ぎが無かったみたいに関係を結びなおしていく流れは、期待を裏切らない「目覚め」の場面だった。

それが、新国立版だと、夢から醒めた場面が、醒めた感じがあまりしなかったのですね。これは、新劇系の若手の俳優さんたちが、ある種の「芝居」に入ったままのうわずったトーンの水準でしか演技ができない、ということなんだろう。あえて日本の演劇シーンになぞらえて言えば、五反田団とか「むっちりみえっぱり」みたいな脱力系とでも言えるような素に近い演技も、新劇的な声を張った演技も、どちらの水準も往還できてこそ、俳優としての技量を発揮できているというものなのだろう。それが、日本だと、ひとつのトーンで演技が続いてしまうことに、何の疑いも持たないことが多すぎる気がするのだが。

野田学氏の解説によれば、プロペラの台詞まわしは、シェイクスピアの言葉を声に出すものとして、英国でもお墨付きのものなのらしい。わりと、日常会話的なレベルのくだけたニュアンスが感じられるにも関わらず、シェイクスピアの韻文としての正統性もきっちり踏まえているということか。一割も台詞が聞き取れなかったので、その辺、私にはなんとも言えないが、ラストに向かっていくあたりでは、台詞の音楽的な豊かさに少し触れられたような気がしたものだ。

さて、新国立版の再演を見る気になったのは、パック役のチョウソンハさんの演技を確かめたかったから。身のこなしの軽妙さという面では、プロペラの役者さんに勝るところがあったと思う。でも、台詞のニュアンスの豊かさという面でいったら、プロペラの役者さんの方が一日の長がある、というか、魅力的でしたね。

しかし、最後にパックが芝居を閉じる口上を述べるところのリズムは、新国立で聞いたセリフと重なり合うもののように聞こえた。松岡訳は、そのあたり、きちんとリズムまで訳すことができているのかもしれないな、なんてことを思った。

シェイクスピア時代の劇場は大掛かりな装置などは無かったわけで、そのあたり、今回のプロペラ公演の簡素な舞台の仕立ては、むしろ、シェイクスピアに忠実なように思った。俳優たちが楽器などで効果音を出したり、合唱したりという素朴な音の世界も、フィジカルな演技と地続きのところにシアトリカルな音楽性が成り立っているという感じで、とても素敵だった。なんと、今回の公演セットは、英国から船便で送られた装置がトラブルで届かなくなって、急ごしらえで作ったものだそうで、でも、そんなところも、実に、かつてのグローブ座ってそんな雰囲気だったんじゃないかと思わせるところがあった。

新国立版だと、回り舞台を生かして館と森を区別してみせ、ラストではその裏側まで見せて、芝居がはかない夢を見せる仮設の装置であることを明かしてみせるという仕掛けだったけれど、そんな大掛かりなことにお金をかけるくらいなら、初めから仮設でやっておけばよいのだ、とも思う。まさしく、最初から仮設の装置でも、演技が一流ならば、舞台は立ち上がるのだ、ということを見せてくれた、今回のプロペラの「夏の夜の夢」だった。

さて、新国立版のときも、劇中劇の一座がとても素敵だったなあと思ったのだけど、プロペラ版も劇中劇一座が面白かった。これは、素人芝居をあえてプロが演じるということで、逆にダメな芝居のパロディをするということになって、とても批評性が試されるところがある。新国立版の場合は、劇中劇一座の方が(翻訳も歌舞伎を踏まえたりする奔放さがあって)ニュアンスに富んだ(上ずった芝居臭さの無いという意味で)「ナチュラル」な演技を見せてくれていて、逆説的に、本編のドラマに対する批評となっていたように思うのだけど、プロペラ版の劇中劇の場面は、大時代的な韻文の朗誦というのをパロディ的に強調してみせているところが面白かった。それも、追いかけっこの入れ代わりとかがあったりと吉本新喜劇ばりにべたな喜劇として演じていて、満員の客席も笑いにつつまれているというあたりが、素敵すぎる。

考えてみると、英国の劇団によるシェイクスピアを見るのは今回が初めてだった気がする*2

韻文性を踏まえながら、カジュアルな日常性と地続きであり、そしてフィジカルな躍動感ある演技が成り立ちえるということを知ることができたのはとても有意義で、これからシェイクスピアのテキストに当たるようなことがあるとして、プロペラの公演で耳にした響きのことを思い出すのだろうな、と思う。

*1:キャンプ趣味じゃないか、見たいなことも言ってた。キャンプ趣味については、ソンタグの「キャンプについてのノート」を参照のこと。私個人の見方として言えば、喜劇的想像力という枠組みで考えておけば十分だと思う。もしそこにキャンプ性ということがあったとしても、それは周縁的じゃないか(わかる人にはわかればよいこととして提示されている)と思う。それは、歌舞伎や宝塚の舞台を評価する上で同性愛者のアイデンティティポリティクスという視線から読むことを前景化する必要が無いのと同様だ。もちろん、そういう視点で見る有益さはあるかもしれないが、それが上演評価のうえで要請されるわけではない、ということだ

*2:今までシェイクスピア作品の来日公演を見たのは、ベルリナーアンサンブルだったり、ロシアの劇団だったりした。それが、単なる自分の偏りなのか、それとも、日本の演劇シーンにそういう偏りを促すものがあっただろうか