還元主義的先入見と諸学の関連について(改稿)

小飼弾シノドスをバカの集まりと言い切った件にもう一度触れておく。

404 Blog Not Found:人文科学者がダメな理由がわかる - 書評 - 日本を変える「知」

今回のエントリーの指針を示すなら、こうなる。

・誰かをバカと言いたくなったら、必ず、「おまえはバカだ」と言ってしまう前に、どの行動を愚かと言うのか明確にすること。そして、「そういうことをするのは愚かだ」と言いなおすこと。

還元主義的な先入観について。

小飼弾は自然科学の知見を社会科学に不可避の前提としている点で、いわゆる還元主義に近い発想をしている*1
単純に戯画化して言えば、世界の出来事はすべて物理現象なのだから、政治も社会も物理法則から説明できなくてはならない、という風な考えは、一種の還元主義である(素朴な物理還元主義とでも言うか)。
小飼弾の、自然科学の知見がなければ社会科学の誤りが正せない、という主張は、ある種の還元主義的な考え方を示している(少なくともレトリックにおいて、還元主義的な先入観に訴えている)。

そこで小飼弾が言っていることは、コンピューターは物質であり電気で動いている。だから、コンピュータープログラムのデバッグをするためには電子の振る舞いについての量子力学的な知識がなければならない、と言っているに等しい。
あるいは、自然科学においてなされる主張は論理的な整合性を持たなければならない。それゆえ、どのジャンルの自然科学専門誌も、査読委員に論理学者を加えなければ必ず間違う。と言っているに等しい。

これは短絡というものだ。

もちろん、コンピューターのプログラムを考える上で、電子回路の知識が有用になる局面はある。自然科学上の論争を精査する上で、論理学の知識が有用になる場合もあるだろう。しかし、それは、コンピューターより電子回路がより基礎的な知識であり、自然科学上の具体的な推論より論理学上扱われる推論の形式の方がより基礎的な知識だから、それが知識の前提になっている、ということではないのだ。

自然科学と社会科学は、ある種の関連を持っているが、自然科学と社会科学は、それぞれ独立の学問として成り立っている。

確かに人間は有機体だが、社会科学においてモデルの要素とされるエージェントについての知識が、それに該当する実在を成り立たせているものの知識に還元できる(ないし還元すべきである)と考えなければならないわけではない。量子力学素粒子論の知見が不十分でも、化学において十分に正しい推論や観察を行うことが可能であるのと同様に。

ここで、ひとつの例として、放射性同位元素についての知見が、考古学において役立てられている例を考えてみる。

MSNエンカルタ:同位体
http://www.atomin.go.jp/atomin/high_sch/reference/radiation/riyou_all/index_03.html
http://homepage3.nifty.com/physico/physics/littleturn/meanlife.html

今日の歴史学/考古学では、年代測定の手法として放射性同位元素による測定結果が欠かせない研究手段となっている*2
しかし、これは、歴史記述が物理学によって基礎付けられているということではない。
物理学は年代確定をするための根拠を提供しているが、そのデータから年代を判断し、それを歴史記述に用いることを根拠付けるのは、歴史学や考古学と共にある前提であって、自然科学ではない。

そもそも、物理学の中には、「年代」を秩序付ける原理はないのだ。
物理法則自体には、時間的秩序を歴史的に不可逆なものとして位置付ける理由はないのだから*3

あるいは、動物行動学や大脳生理学など、自然科学についての知見が、人間行動の価値について、つまり倫理について考える上で無視できない場合がある。だからと言って、自然科学について知っていれば倫理について考えることができる、ということではない*4

閑話休題

ところで、当該エントリーのはてなブックマークを見ると(ブックマーク数の伸びも落ち着いてしまい、もうあまり注目を集めていないようだが)次のようなコメントがあった。

userinjapan (略)人文・社会・自然科学の枠は前世紀の遺物。
はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:人文科学者がダメな理由がわかる - 書評 - 日本を変える「知」

古臭い前提で話をすること自体は愚かではないだろうけど、その自覚がなかったら愚かかもしれない。

どういう意味で学問区分の枠組みが遺物といえるのか、若干の説明を行ってみたい。

学問の秩序

それぞれの学問領域が、その妥当性や正当性について、固有の前提や固有の根拠を持っている。たとえばオーギュスト・コント社会学を独立の学問として創始するときに、別のレイヤーを構成する諸学が互いに還元不可能なものであると証明しようとする議論を展開している。

だが、19世紀のコントが考えたように、知識の構造をより要素的なもののレイヤーの上により複合的なもののレイヤーがあるとか、基礎的なものの上に応用的なものが載っているというような、ピラミッド状の組織として考えること自体が、おそらく無用な(更に言えば思考の邪魔になる)図式になってきている。

19世紀から20世紀までなら、諸学問の秩序を、階層状に考えることが思考の経済に役立ったかもしれない。だがそれは、雑誌や書物、書簡が、知識を伝え生み出す媒体の中心であった時代の社会秩序に他ならない。

今後、様々な知識が「言明」の多様な相互作用の場において絡み合い、思いもよらない有用性を生み出していくと考えると、単純な階層関係として諸学問の秩序を考えること自体が愚かなことになりつつある。

多様に専門化した知識の間の関わりを、固定された秩序がないデータの集積であるデーターベースのようなものとして、そこから様々な文脈に応じていかようにでも知識を出力できるような関連として、考えるべきだ*5

自然科学が社会科学よりも基礎的である、だから自然科学を重視すべきだ、という論理は、雑な図式として使えないものになりつつある*6

学部学科制の大学制度も(それを乗り越える試みが「学群」といった名前のもとに今までも進んできたとして)、ITと本格的に結びついた形で大きく組みかえられようとしている。インターネットの基盤整備はまだまだ続くだろうが、それと平行して、学問を生み出す社会制度も、21世紀から22世紀にかけて(人類の社会が深刻な危機に陥らない限りにおいて)大きく組み替えられていくことになるだろう*7

良く知らないけど、知の構造化プロジェクトとかは、そういう関心のもとに動いているのだろう
http://www.cks.u-tokyo.ac.jp/japanese/theme/j_theme.html

知識・構造化ミッション 大学は表現する (日経ビズテック・ブックス)

知識・構造化ミッション 大学は表現する (日経ビズテック・ブックス)

たとえば、量子力学的レベルの知見を化学レベルの知見にどう結びつけるのか、つまり、よりミクロに捉えられる事象を扱うレイヤーの知識をよりマクロな事象を扱うレイヤーの知識と結びつけるということは、それ自体余りに複雑な相関関係である*8

雑な見取り図を描いておけば、その間を人間の直観ではなく、ITの補助によって埋めよう、というのが、今進んでいることだ、ということなのだろう。

その意味で、経済学者の知見に自然科学者を含む他の分野の専門家が過ちを指摘するような営みは(実際に小飼弾の発言をきっかけにして経済学者の発言が訂正されたように)今後拡大するだろうが、その有益さを、自然科学者を特権化するような仕方で指摘する点で、小飼弾の議論は間違っており、個人としての自然科学者が参加すれば十分と考えているところで、射程があまりに狭い。

社会科学者の集団は、自然科学者抜きでも様々な問題を解決できるだろうが、自然科学者が加わったほうが、解決が早いということは大いにありえる。そして、自然科学者がその集団に加わらなくても、社会科学者の議論に自然科学者が介入することはいくらでもできる。

そして、学会組織などの形で科学者が専門別に集団を形成するということ自体が、ある程度今後も続くとしても、他の集団との間の交流を促進するような形に(メディアの性格の変化に応じて)変わっていくだろう。
将来的には、自然科学と社会科学という区分自体が、町人と区別された武士階級の生き方が明治以降消滅したように、消えていくかもしれない。

まあ、ニュートンとかファラデーとか歴史上の偉人をヒーローにして科学の価値を称揚する小飼弾は、家康や信長をヒーローにして経営を語るおじさんくらいには、憎めない人かもしれない。

おしまいに

「炎上して土壌が豊かになるんですよ」というのは、弾言というより至言だと思った。
AMNブロガー勉強会、あるいは「スゴイと言ったら伝わらないこと」+ - 白鳥のめがね

と前も書いたけど、まあ、せっかく焼けて畑になったところがあるので、少し耕してみようと思いました。

余談

シノドスさんについては小飼さんはそのあともうちょっとトーンダウンした書評を書いていた。
404 Blog Not Found:目指すところは同じなのだが - 書評 - 経済成長って何で必要なんだろう?

あと、これね。
404 Blog Not Found:はてなで遭遇したありえない増田系名無
宇宙には、上も下もない*9。有名人は敬称略しても良いというのはデフォルトです。


以上、パフォーマティブな側面に注目して書いた前の記事への補足として、小飼氏の当該エントリーの内容に踏み込んで注釈してみました。
書評を読めばダメな理由がわかる―二つの「知」と古臭い感性+8 - 白鳥のめがね

*1:もちろん、単なる還元には還元されない問題を指摘しようとしているとも読めるのだが、それを語るのに還元主義的なレトリックを(自覚的にか、無自覚にか)採用してしまっていることが問題だ。還元主義の批判は、20世紀に展開した科学哲学の主要な論点のひとつ。

*2:放射線や放射性同位元素が見出されたことによって、生理学の研究が大幅に進むことになった。化学反応を経ても変化しない同位元素の放射性がマークとして様々に活用されたのだ。こういう知識と技術のダイナミズムにおいて放射線の発見が持っている驚くべき役割について、もう少し知られていて良いと思う。少なくとも、高校生くらいでそういう認識をちゃんと持っていたら、文系に行こうが理系に行こうが、歴史認識がすごく立体的になるはずなんだけど。

*3:ある種の宇宙論や古生物学、地質学が年代記的な秩序を知識として生み出しているとして、まず歴史学が先にあったこと、物理学や古生物学においては、年号が問題とならないことに注意しておきたい。ニュートンが宇宙の歴史を考察したとき典拠にしたのは聖書から読み取れる歴史記述だったことを思い出しても良いかも知れない

*4:精査していないけど、次の論争なども、還元主義的な先入観をどう始末するかについて、小飼弾は無用の混乱をもたらしているようにみえる。水伝から派生した小飼弾氏のブログでの論争 | ミーム吉田のネットニュースクリッパー

*5:こう書くとき、東浩紀が描くようなデータベースモデルが念頭にある。まあ、データーマイニングのこととか実践的な知識はないので、そっちに詳しいひとからすれば素朴な図式かもしれない

*6:ここで、私は諸学問の階層秩序的な描像自体が解消されていく、という議論と、諸学問はそれぞれ自律的に知識を生み出している、という議論をしている。この二つの論点の関わりに関してはいろいろな問題がありえる。学会組織無しで知識が算出されその妥当性が検証されてゆくようなインタラクティブなモデルを考えることはいくらでも可能だろう。あるいは、オープンソース的な運動が、有用なモデルの一つを提供するのかもしれない

*7:もちろん、たとえば基礎と応用といった区別をつけておくことが、学的な組織の経営上、ないし、学的な集団を維持する政治的な営みの面で、有用であることがあるかもしれないが、それは、知識それ自体の性格とは異なると考えるべきだ。あるいは、知識そのものという言葉自体が間違った描像であると考える人も居るかもしれない。たとえば、パフォーマティブとコンスタティブの区別はつけられない、云々。私自身は、直感的なレベルで言えば、知識を生み出し伝えようとする言明(ディスクール)を政治を行う言明(ディスクール)から区別することが有用である局面があると思う。いろいろ課題がありそうな話ではある。

*8:初め「基礎」というメタファーで書いてしまったので、それを、ミクロ、マクロに書き換えた。人が微細なものを基礎において考えたがるのは、自然現象それ自体が実在として階層構造を持っているわけではなく、学問や観察の便宜において、実在がレイヤーを構成していると考えたほうが思考のエコノミーにおいて有益である、ということに過ぎないと考えるべきだろうと思う。これは、「自然種」の実在性についての哲学的な問題に関わるような論点だろうか

*9:実に、上とか下という観念は、物理学や生物学に還元できない、人文学的な研究領域である