庭劇団ペニノ『黒いOL』

8日月曜の夜に見に行く。

新宿の外れの野外にテントを張った公演ということで、場所の選び方も気になる点だけど、これがすごかった。ビルの谷間に、時代に取り残された空間が広がっているという雰囲気。バブル期の地上げでそこら中虫食い状態のなかに、木造モルタルの、戦後すぐから建っていそうな古いアパートなどが点在する。なぜか、ヨットかなにかマリンスポーツ用の大型車が停められている一角があったりもする。きっと、地上げしたけど駐車場としてしか使い道が無く、一般向けに駐車場として貸し出しても借り手がつかないような辺鄙な場所だから、どこかの資産家が駐車場として使っているというわけだろうか。ともかく、きらびやかなビルが林立する風景にかこまれて、とてもすさんだ風景がよどむようにひろがっていて、そこの野原のような更地にテントが建てられているのだった。

そして、その場所に足を運んだ印象の方が、公演そのものよりも強烈に残っている。その意味では、ともかく足を運ぶ意義はあったと思う。作品の内容そのものが、この場所の選び方と密接に関連している可能性は高い。オフィスワークのあるオフィス街と、その地面の下に埋もれるようにして堆積している、土俗的なものや、時代に取り残されたものの重ね合わせ、という感じだろうか。しかし、それを積極的に評価するほどの説得力を作品そのものには感じなかったというのが正直なところだ。説得力が欠けて見えた理由については、以下に論ずる。

その前に、劇団名について。そもそも「庭劇団」というネーミングが矛盾を孕んでいるだろう。庭というのは、なにか特定の出来事のための場所ではない。劇というのは、あえて乱暴に定義付ければ、取り返しのつかない決定的な出来事の生起を意味する。劇の背景になってしまえば、庭はその本質を失うし、庭の光景に溶け込んでしまえば、劇は劇として浮き上がってこない。あえて、こんな名前をつけたからには、そこにかなりの確信があり、かなりの賭け金が積まれていると考えるべきだろう。では、その賭けは成功しているのか?

『黒いOL』の作中、小型の電光掲示板にゆっくりとタイトルなどが流されるのだけど、作品全体の中に、第一章、第二章といった区分けがなされていて、章ごとのタイトルも示される。そこには「田植えランドスケープ」といった言葉も見える。ランドスケープというのが「庭劇団」のコンセプトを暗示するひとつのキーワードらしい。出来事を、劇として、いわば「情景」として浮き上がらせるのではなく、「風景」として見せることが意図されている。

『黒いOL』では、情景や場面は切れ切れに提示されるが、物語り的な展開は前面には浮き上がってこない。物語としては断片が提示されているだけであり、それは意図的に選ばれてもいるのだろう。いわば、「物語」を主体としない「イメージの演劇」とでも言えるようなものだ。その点、舞台美術や照明の方にむしろ力が入れられていて、演技の手法という点では、ほとんど何のこだわりもない。もう、いまどきの若者がさほどの訓練もなく行った演技といえるようなものを垂れ流しているだけであると言い切ってしまおう。

たとえば、地面をむき出しに溝のようなものが掘られていて、そこにたまった水溜りでストッキングを洗うという仕事を、黒いスーツ姿のOL風の女たちがする、といった場面がある。どこか、地下の坑道に作られた、廃工場のような風景のなかで、オフィスワーク姿の女が、身体的な労働をする、それをひとつのイメージとして展開したい、そこにこの作家の表現意欲が注入されている。

ともかく、普通の劇場では実現困難な、とても細長く奥まで続いている空間を実現することに、ほとんどの意欲がそそがれているに違いない。そして、その情景は、確かに完結したひとつの「スペクタクル」として成立していた。しかし、それは、やはりスペクタクルに他ならないのであって、「風景」として成立しているというよりは、劇的な連関を薄められた情景、ないし劇的場面としてしか成り立っていないと思われる。その点で、「庭」というキーワードが積極的に生かされているのか、言い訳にしかなっていないのか、怪しいところだ。

ともかく、物語的な要素は、その状況を成り立たせるために奉仕しているかのようでもある。OLたちの他に、その工場のような場所を管理しているスーツ姿の男たちが一日の仕事を始める場面から舞台は始まる。マイクを使って地下工場のような場所にいるOLたちを点呼する様子なども描かれる。管理者たちは、OLたちがいる「坑道」の演技スペース手前にあって、「額縁」の外に位置する観客席に一番近い演技スペースで「地上」の演技をしていて、舞台は二重構造になっているのだった。ひとりの年増OLが、ほとんど呆けてしまった状態でいるのを、管理する男たちが蔑むように「何年こんなことしてるかわかってますか?」などとマイクで語りかける様子が描かれもする。

そんな場面を見ると、オフィスワークと身体的労働を重ねながら、不条理な場面設定の中で、資本やシステムによって労働が非人間的なものとされていることを、告発といわないまでも、風刺する意図があるのかなんて考えてしまいそうだが、おそらく、それは当たらない。

あるいは、それこそ不条理演劇の再来とばかりに、生きることそのもの、食べることや働くことをめぐる身体的条件そのものへの実存的な不安とか嫌悪が主題となっているなんて解釈が誘われているのだろうかなんて思いも浮かぶけれど、そういう解釈をしてしまっては作品の正当な理解から外れるのだろう。そんな解釈が誘われることは、十分計算済みかもしれないが。

作家の根底に、そういう実存的感覚みたいなものが実際働いている可能性はあるかもしれないけれど、作家的意欲がそこから発していると考えるには、人物たちの扱いはあまりに操作的であって、キャラクターの分配という計算しか働いていないようであり、ぞんざいであると言って良い。人物それぞれの扱いも、結局、設定の一端でしかない。

たとえば、双子のような対の女たち、というイメージは、作家的必然から生まれたというよりも、既存の手法の応用として、作品にテイストを加えるための道具として持ち出されただけのように思われる。というか、この作家はそういう操作こそが創作であると思っていると疑ってみることもできるだろう。しかしそこで、「シミュレーショニズム」を徹底するという戦略があるわけでもないだろう。

多分、イメージの戯れ以外にすることがないのだろう。その戯れを開き直って繰り返しているということでしかないようにも見える。そこでむなしさを感じることも無いのは、演劇史的文脈など忘却するに任せれば良いという日本の現状だろうか。文化祭的に共同作業をすることに、自己完結的な達成感が約束されているからだろうか。

おそらく、『黒いOL』では、工場のような情景を成り立たせることだけが目指されているのであって、物語的な要素は、単なる設定でしかないだろう。ある状態、その雰囲気が醸されれば、それで十分なのだ。情景が描かれて行きさえすれば良い。物語的な要素の用いられ方は、むしろ、あまりに物語的過ぎる点、あまりに類型的すぎる点において、批判されるべきなのだろう。その結果、ほのめかしがはぐらかされて終わるように感じる観客も多かっただろうと想像する。

作品へと突き動かすものとして、イメージを情景として具現化する欲求がある、あるいは、夢想を実際に描いてみたいという欲求がある、のだろう。たとえば、漫画家で言えば逆柱いみりだ。逆柱いみりが、『ガロ』でのデビュー当初から、くりかえし高度経済成長前のようなパイプがうねる工場の風景を強迫的に描き続けてきたのと同質の作家性を『黒いOL』のイメージに感じる。舞台のそこここに置かれた鉄のフックであったり、換気扇であったり、よじれた配線コードであったり、あるいは二本のレールで上からストッキングを送ってくるトロッコ状の箱であったり。わざわざレールを敷くというのは、かなりなこだわりだ。

その情景に「喫煙ルーム」が重ねられているのだが、そこにあるのは、いわば、夢の論理だ。工場、OL、農作業、その場所を管理するものたち、そういった配置は、様々なイメージが類似において重ね合わせた夢の形象としてある。

そういったヴィジョンを「幻視」とまで言ってしまうのは誉めすぎだろう。夢の形象としては、誰でも眠れば見られる程度のものでしかないのではないだろうか。

あるいは、このタイプのイメージ先行型作家として連想したのは、趣味は違うが、映像作家の黒澤潤だ。彼もまた、自分が抱いているイメージへの偏愛を、映像として定着せずにはいられない類の欲求を抱いているのだろう。

しかし、この類の作家は、巧拙の違いはあれ、結局、趣味を同じくする人間が、自分の趣味に耽溺するためにだけ、愛好される、ということではないか、とも思われる。そのこと自体は、貶されるべきことではないが、誉められるべきことでもないと思う。

たとえば、幻視されたヴィジョンが芸術的な完成に至っているものとして、ベケットの「人べらし役」( Le Dépeupleur / The Lost Ones)を考えて見ても良い。
http://beckettjapan.org/translations-j.htm
あるいは、諸星大二郎の、最近の鳥をテーマにした連作を考えても良い。

この域と比べれば、庭劇団ペニノの作品は趣味への耽溺が過ぎるのではないか、と思う。庭劇団ペニノが、今後、今回の作品よりも普遍性のある作品を実現できるかどうかは、未知数だが、今の段階に安住している限りは、自己模倣を繰り返す中で趣味の共同体を組織してゆくだけに終わるだろう。