『学芸会レーベル』+

4月20日に見に行く。初日。公演前に関連企画を見て、公演を見て、公演後のトークを聞いて、居酒屋に流れた。

世界設定は、「学芸会」が禁じられた(現代)世界。学芸会が禁じられた理由は、劇中で展開される学芸会によって示される。「学芸会」とは「虚構」の力が開放される場所。つまり「演劇」の別の呼び名に他ならない。「演劇」は虚構の世界をひらく。虚構の世界に飲み込まれ、戻ってこれないという事故が起こりえる、それゆえ、「学芸会」=「演劇」は危険なのである。という設定。

風の谷のナウシカ』『AKIRA』そして『新世紀エヴァンゲリオン』。
これらのヒットしたアニメ(マンガ)が共有している世界設定は、大災厄のあとに生き延びた人が再建した世界、というもので、この大災厄はあからさまに第二次世界大戦と戦後の復興というイメージを投影したものである。

マンガやアニメと昔話やお遊戯の引用を織り交ぜてつくられた『学芸会レーベル』は、この「大災厄」のイメージを繰り返している。

学芸会の暴走によって、世界は破滅の危機においやられた、そのために学芸会は禁じられた、という設定をこの図式に当てはめれば、虚構の暴走とは第二次世界大戦そのものを暗示する。「桃太郎 海の神兵」。

『学芸会レーベル』は、幼稚園が舞台である*1
出てくるのは、幼稚園の先生たちと、園児(2+1)と、パパひとりである。先生ばっかり出てくるのにちゃんと園児がいっぱいいる雰囲気が出ているのがさすがである。

舞台の導入部では、お菓子を横取りしたいたずらっ子がお仕置きを免れるためにマネッこを繰り返したり、「グーチョキパーでなにできる?」の唄のお遊戯によって、力比べをするバトルが繰り返される。

これはつまり、「演技力」のバトルなのだ。「学芸会」を駆動する強い力=演技力。

「学芸会」は、恥ずかしがりやの心を開いたり、母親を失った悲しみに沈む子どもの孤独を癒したりする力がある。しかし、かつて恥ずかしがりやを癒そうとして禁じられた学芸会を開いた結果、恥ずかしがりやの園児は桃太郎の雉になりきってしまい、鬼への復讐心が嵩じて先生の目を潰してしまう。

さあ、この「虚構」に飲み込まれた恥ずかしがりやの園児(だにえる君)が、自分の神話に従って犯罪を犯してしまうような犯罪者をモチーフにしていることはおわかりだろう。例えば、『ライ麦畑でつかまえて』を持ってジョン・レノンを殺したマーク・デイヴィッド・チャップマン

『学芸会レーベル』では、かつて虚構に飲み込まれた「だにえる君」は、木の役をするという仕方で虚構世界に封じ込められ、現実の幼稚園には木として存在しているという設定になっているのだけど、学芸会が開いた虚構世界の中で母親を求めてさまよう園児(まこと君)を救う役回りを与えられている。この点で、キレてしまったかつての「園児」を戯曲の中で救済していることになる。

学芸会が開く虚構世界が、赤ずきんちゃん、から始まったはずが、うさぎとかめ、かめが出てくる浦島太郎、シンデレラ、などなど、さまざまな昔話のモチーフが連鎖しあって、悪夢のように出口がない「間テキスト」的空間として設定されていて、「説話論的な磁場」のせめぎ合いのように、主役を奪い合う演技力=虚構力のゲームとして展開されている。いや、この劇中劇のような学芸会世界こそが、学芸会レーベル全体の基調をなしている。それは、目的も無く内側に閉じて終わり無く展開する「小劇場演劇」そのものを表象するみたいだ。

演技は、大げさに声を張り上げて、はりきって誇張した身振りを繰り広げるようなもので、マンガやアニメのきめポーズみたいな仕方で演技バトルが交わされていくのだった。

最後には、「だにえる君」が狼役を引き受けて「殺される」ことで赤ずきんちゃんを「めでたしめでたし」で終わらせ、学芸会の虚構世界は幕を閉じ、それでも甘える「まこと君」を、三途の川で押しとどめるみたいに「ひとりで強く生きていくんだ」と「だにえる君」が現実世界に押し返す。

エピローグでは、「学芸会」を開くだけの強い演技力を持った「みゆき先生」が、学芸会を求める人たちを救うために旅立つ、というシーンが描かれる。そこに、強い演技力を持ち学芸会世界から生還したまこと君が「連れて行ってよ」とおねがいする。
「志望動機は?」と問いかけるみゆき先生。

ここで「志望動機」という言葉が使われているところに批評性があったと思う。その言葉を茶化すにしても、選んでおかなければならなかった理由があったのだと思う。中屋敷さんが「学芸会レベル」と揶揄されたことを「学芸会レーベル」と茶化し返すことによって、たかが虚構としてのお芝居のうそ臭さやいかにもな芝居くささを逆手にとってまともにひきうけることで、虚構を演じる責任を引き受けるような作品だったのだから。


それでも虚構が必要だ、ということを言ってのけるためには、就活したり婚活したり、新自由主義の論理を徹底するみたいにして、自己責任で世の中渡っていかなければいけない、学芸会戦士が進む先は、荒野なのだろう。もちろん、資本主義というのも、大きな虚構ではあるのだろうけど。

公演後のトークで、「ともかく役者のみなさんに、おうたを歌ってもらって、体を動かして、元気になってもらいたかった」と作演出の中屋敷さんは語っていて、確かに、園長先生役の女優さんなんか楽しくて仕方無いという感じの微笑みがあふれていたりした。

しかし、後から考えてみると、主役ともいえるみゆき先生を演じた伊藤さんは、もうギリギリのところで演じているような苦しげな気配もあった。

みゆき先生を演じる伊東沙保さんは、終始額の血管が浮き出ている感じで、いつ頭の血管が切れるともしれないというハイテンションぶりが痛々しいくらいで、それはまるで、必死になって働いているキャリアウーマンみたいなイメージに重なってくるのだった。

(4月28日 加筆)

*1:厚生労働省の管轄下にあるという設定なので、現実世界であれば保育園じゃないといけないのだけど。現実世界では幼稚園は文部科学省の管轄。あと、細かいツッコミを入れておけば、園長先生が厚生労働省に「通達」するというせりふも、現実世界では間違っている「通達:主に行政機関内部において、上級機関が下級機関に対し、指揮監督関係に基づきその機関の所掌事務について示達するため発翰する一般的定めのことをいう。(Wikipedia)」だから。