今日はアマゾン経由でe book offに注文した砂子屋書房の『佐藤鬼房句集』が届いたのでそのことを書こうかとも思ったけど(表紙がどうしてもおっぱいに見えてしまうとか)、こないだ書きかけた(書きかけだ)保坂和志の話の続きを書いてみようかと思う。

前回何か批判めいたことを書いてしまったけど、今はべつに批判したいというわけでもなく、でも時折ちょっと反発を感じてしまうほどには保坂和志との距離を感じるということなのだろうかと思ったりする。

今日は「2」の、やってきた「きょうだい」が出かける手前まで読んだ。

きょうだいのディテールとか正直どうでもいいとか思って適当に読んでいるのだけど、それもぼんやりした記憶として読み進めるうちにあとから喚起されたりするのだろう。

でも、それぞれの発話のたたみかけが人物をたくみに造形していくのはもう一度言うけど見事だと思う。地の文も語りになっていて、その語りも、カッコに入れられた発話も、同じ言葉であるには違いないのだけど、その位相の落差みたいなものが気になったりする。

手法として一見したところ斬新でもないようだけど、語り手の語りから描かれていく情景と語り手の思考が平坦に続いているのに対して、カッコに入って描かれる発話のそれぞれは何かそこから飛び出してくるように際立って別の空間を作っているみたいで、その落差は、なんだか今まで読んだことの無いもののような気もする。この作品の秘密はそのあたりにあるのだろうか、タイトルもタイトルだし、とか、考えながら読んでいる。

それで、書こうと思っていたのは、「1」の末尾の情景描写を読んでいて、蓮実重彦(←ちょっと字を手抜き)が書いた小津映画についての文章で夜の部屋のシーンについて語っている部分を思い出したということだった。

そこから何か考えたわけでもないのだけど、「1」の末尾は、フェードアウトするみたいにしめくくろうとする運びで、なんともリリカルで、つやつやとして美しいとおもった。

闇を透かすほの明るい光についての描写が丹念に重ねられていくのだけれど、それが、そこに無い情景を重ねながら、ひとつの部屋の知覚の成り立ちをそっとすくうように描くことになっていて、読みながらこの描写になだれ込んでいく風に意識にどこでスイッチ入ったのかなと考えて読み直してみると「カチャカチャ」がスイッチだった。

「ガラン」と「グラス」でこの触覚を触発する聴覚のオノマトペをはさみこむ形になっているのも、カタカナのスピード感がそのあとの描写の緩やかさに意識を投げ込むような働きをしていて、カチャカチャから動き始めた作中人物の動きの後にたなびく記憶みたいなそのあとの情景は「降りていった」で終わっている作品の中の時系列から外れた場所なので、それはカチャカチャで断ち切られた空間に漂っているのだとでも言ってみたくなる。