移動式WALLプロジェクト4月(佐藤ペチカ/徳久ウィリアム)

佐藤ペチカさんのダンス公演には何度か足を運んだことがあって、佐藤ペチカさんが自分の名義でやっているのは覚えている限り全部ソロ公演だったのだけど(もしかしたらグループ作品にも客演していたかもしれない)佐藤さんが中心となったグループ作品で、しかもダンスではないみたいなので、興味があって、足を運んでみた。

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ピアニカとかリコーダーとか、小さなおもちゃのような木琴とか、おもちゃのピアノとか小学校のころしかつかわないような楽器を使って女性パフォーマー5人(だったと思うのだけど)が、合奏をする。歌もある。懐かしい古い歌とか、合奏される音楽も、知らなないものでも、どこか、なつかしい感じなものだ。

それで、歌や、音楽を交えて、輪になってするちょっとした子供のあそびみたいなことが行われたり、全体にお遊戯のようでいて、でも、やはり、大人でなければできないことが行われている。

歌や音楽は、すべて既成のものだけど、アレンジは佐藤さんが起こした譜面を合奏していく間に定まったものだそうで、そのアレンジも簡素ながら巧みさを感じさせるものであって、素朴な演奏なんだけど、アンサンブルの妙みたいなものを感じさせるところもあった。

音楽というものを、すごく、技巧とか、響きの精妙さとか、そういう洗練を極めていく方向で、音に浸って、審美性をつきつめていくという仕方で、楽しむというクラシックとかジャズみたいな方向性もあるのだろうけど、そういうのとは違う仕方で、音楽というものが遊びみたいなものとして生まれてくる現場みたいなものをシアトリカルに見せてくれたみたいだと思う。

どうやら、アフタートークの話を聞いてみると、舞台のベースにペチカさんが書き下ろした壮大な神話があるのだそうだけれど、そういうこととは別に、どこか、無国籍風にファンタジックな感触が持続するのだった。

少女趣味って言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど・・・・というところで話が逸脱するのだけど、それはまた別の機会に書く。

徳久ウィリアムさんのことはぜんぜん知らなくて、たまたま今回のカップリングのおかげで見たというか聞いたのだけど、ここ何年か、音楽にしろ何にしろ、音を聞くことの根底には物と身体との相関関係とか、物と物の間におきる何らかの出来事との関わりがあるよなあということをずっと考えていたので、音楽のひとつの根幹みたいなものに触れるような思いで聞いていた。

というのも、音楽がデジタル化されて、どんな音でも合成できるようにもなって、スピーカーから出てくる音は現実音とはまったく関係ないようだけれど、しかし、ビートというのはどこまでも打撃の感覚につながっているよな、とか、ストリングス系の音なら、やはりこすれるという感覚とつながっているだろうし、ブラス系の音なら、やはり、息とか空気とかが出たり入ったり、吹きすぎたりするという感覚とつながっているだろうし、音楽という抽象的な構成の領域にも具象音へのとっかかりというものがどこかに残り続けるもので、そうした身体性というものが無ければやはり、音楽というものも無いのだろうということを考えていたのだけど、そういうのは当たり前のことといってしまえばそうかもしれないが、そのことを考えることで何か芸術というものについて自分にとっての見方が定まるような気がしたりしていた。

まあ、ノイズを声だけで出して、「ノイズバンド顔負け」なパフォーマンスをしてみせてくれるわけなんだけど、そういう喉とか鼻とか口腔とかを駆使した身体の様々な作用から音楽が生まれてくるのだなあということで、そういうのが音楽の原点でもあるのだろう、と言い切ってしまうと自分が感じていたことからずれてしまうのだけど、そういう、身体的に操作可能なものの領域に還元可能であるということは、音楽を様々な単位の構成として感じる、その単位を単位として掴むことの根拠を与えるものじゃないか、とか、今考え直すとそういえるようなことを感じていた。

なので、サラウンドシステムで音をいろいろ立体的に動かすとかいうことにはあまり興味がなかったし、サラウンドのシステムが最適に聞こえる場所で聞かなかったことをあとでちょっと失敗したかなとか思わないでもなかったけど、後悔するほどでもなかった。

で、アフタートークで「倍音唱法」とか言う言葉を口にして質問している人がいたのだけれど、あ、それって自分が身体性と音楽とかいう図式で考えていたとき盲点だったことだなと思った。ハーモニーと比例関係とか。

いきなり身体という言葉を持ち出すことの乱暴さとか保守反動性みたいなことをぼんやり思わないでもなかったので、そこから考え直して、でも、身体という言葉を慎重に用いるための留保というか、再提示の手がかりというか、にできないかなあとか思ったりしている。