『渡辺のわたし』の肉まんひとつ
今から2年か3年ばかり前はコンテンポラリー短歌が大きな転回点にさしかかっていてわけのわからない面白そうなものがしかし近代だったり戦後だったりする短歌の歴史を別の形で引き受けたり切断したりしながらどこから出てくるかわからないぞというわくわくした感じをかもし出していたように思うのだけどそのひとつの中心が紛れも無く『渡辺のわたし』だっただろうと思う。
このあいだ久しぶりに読み返してみた。
それで次の一首の意味が初めてわかってびっくりした。
九四円。
時給一一六〇円が時給七八〇円に「肉まんひとつ」
歌集では9頁に縦書きで載っている。
「九四円。」はいわゆる詞書というものだろう。肉まんひとつの値段なんだろうと思う。
歌の大意は、時給1160円で働いている客が、時給780円で働いているコンビニのバイト君に「肉まんひとつ」と注文したという情景を描いている(ともっともらしく書くとすごくばかばかしい)。なぜかどよんとした男2人が向かい合っている情景を思い浮かべてしまう。
以前読んでいたときには、助詞の解釈を根本的に間違えていて、時給が下げられたかわりに肉まんひとつが支給されるようになったという歌かと思って読んでいたりした。それにしても意味が通らないと思ったりしていた(←ばかだ)。
びっくりしたというのは、「そんな意味だったか」とびっくりしたというわけで、つまり2年くらい前に読んでいたときに何でこれが読み解けなかったのかとびっくりしたわけだが、バイトはしてたけど学生だったから人物が時給で名指されるということにリアリティが感じられなかったのか。
「肉まんひとつ」と括弧で括られているのは、そこだけ切り取ったように発話が直に描写として取り込まれているということだ。そのあたりの解釈のルールに則ったヒントを着実に解析すればちゃんと読める経済的な構造になっている。
件の一首はなんと言うことの無い一行のようだけど、こういう書き方でしかあらわされない労働と労働の間の空ろで真っ白な時間というものはあるように思う。
実際にそれぞれの人に対応する時給という事実は常にあってマネーと労働の交換の中であてどない発話が交わされるだけの関係というものもあり、そこに向けられた視線の奇妙な位置*1も面白いと思う。
歌葉の『渡辺のわたし』のページを読み返していたら、次のような文章がのっているのにあらためて気が付いた。まるごと引用。
発売にあたって・・・
発売にあたる前に、定価を決めたのです。
ほかでもないそれはわたし自身の定価であるのですから、
びた一文お買い得であってはならないでしょう。
わたしはおいくらでしょう。
わたしの定価はあなたの時給よりもその価値があるのでしょう。
小一時間をかけて、あなたはわたしを読むのでしょう。
件の一首をじっくり読んだあとには、あらためてまたなかなか興味深い著者コメントではある。
『渡辺のわたし』といえば
加護亜依と愛し合ってもかまわない私にはその価値があるから
という「傑作」(笑)があって、これは初期穂村弘に対する初期斉藤斎藤の応答でありミッド80’sに対するレイト90’sの応答なわけだけど、この歌が2,3年前に持っていた淫行条例的な背徳に戯れるモーヲタ的感性のねじくれた肯定みたいな含意って、将来的にスキャンダルとかあったら別の含意を持つよなとか思って読んでいたということを妙に思い出す最近ではある。
これから、この歌の含意はまた変わっていくのだろうか。
そこまで折込済みで斉藤斎藤は歌集に載せたと思うのだけど、これは陳腐化にまかせるとかというのとは別の時代との対峙なり寄り添いなりの戦略というものを表現者として選択したということなのだろうと思ったりする。まあ、加護ちゃんが事実において死ぬなり象徴的に抹殺されるまでは別の意味をまとう可能性を加護ちゃんと共にするということがこの歌での固有名詞の登用に賭けられている事だ。
『渡辺のわたし』にはゴドーを待ちながらを踏まえた一首があって、それを見つけたときにはすごく嬉しかったということを思い出すのだけど、折に触れて読み返すうちにまた新たな発見やら気づきやらに出会えるのだろうかと思ってすぐ手に取れるところにおいておきたいと思う。
(2008年7月30日 mixiから転載)
*1:時給を知っている人が観察しているというリアリズム的解釈はつまらないので、確かに時給という端的な事実が登記されるような平面がコンビニ空間に張り付くように露呈しているということを示す視点なのだ