『カンバセーション・ピース』について考えることが小説について考えることのようだし、カンバセーション・ピースの文体をくぐりつつ考えたことを書こうとしていると、「小説」というカテゴライズの後になんだか特定のタイトルを置きづらくもあり、こうして書き継いでいるわけなのだが。

今日は「5」を読み終えた。「5」のパートは、なかなか複雑な構成を持っていて、ひとつの山場ではあったのだろうなあと思う。なかなか読み進まなかった。ラジオ(FMだったりAMだったり)をイヤホンで聞きながら、その勢いを借りてやっと読めたようなところがある(なので、最初書いた「心地よさ」をめぐる感想とは全く別の所で、努力を要しつつ読み進めている)。

それで、地の文とカッコ付のセリフの文との落差ということについては、いろいろな様式上の実験が繰り広げられていて、そのいちいちが作品としての必然性を持っていることがなるほどよくわかるなと思って読み進めてきたのだけれど、そういうことは全部読み終わってから細部を分析してみても良いことだろうなと思う。この小説の語り手の語る時制というか、語り手の語りの現在は、とても奇妙なしかたでねじれつつ揺れ動いているように思うのだけど、そのこととも関連する。そういうことを精緻にかつトリビアルでない仕方で作品を射抜くように分析している評論がきっとあるはずなので、誰か教えてほしい。

今日は「5」を読み終えたのだけれど、その末尾で、なんだかとてもいらいらしてしまった。小説を読んで、ダイレクトに不愉快な気分にさせられるのもめずらしく、それは、退屈だとかうんざりだとか、下手な小説とか制度的な小説だとかを読んでる途中で投げ出して済むような不快さではなくて、小説の価値をみとめながらもその展開のあり方にまったくもっていらだってしまった。そういうことは、読む途中で書いておいて良いことだと思う。

はじめにこの小説について書いたとき、「だいたい保坂和志のものの考え方というのは、なんか、時々一面的な断定を有無を言わさずゆるがないものとして提示するようなところがあって」とかと私は書き付けていて、そのとき念頭にあったのは実は『生きる歓び』の表題作のクライマックスを読んだ時の、なんだか反論したくなるようないらだたしさのことだった。

それで「5」の末尾では、「生きる歓び」のテーマがもう一度、掘り下げられていて、考えが進んでいるのだなと思いつつ読んでいたのだけれど、その一連のながれで「ゆかり」が語り手をいらだたせているあり方というのは、多分、私が(僕が)反論したくなるような気持ちを抱くあり方と重なり合うみたいで、たぶん、そうした配置の全体が、読みながら、私(僕)をして、いらだたせるものになっている。

こういう書き方をして納得してしまうと、たぶん、僕が(私が)覚えたいらだちというものを正確に捉えたことにはならないのだろうなとも思う。

それで、多分山田かまちという固有名の出し方にも私は憤慨してしまったところがあって、そのこともいちいち書いたら読む人もうんざりするだろうからやめておくが、山田かまちをいっぺんちゃんと読んでみないといけないなんて思い込んでみたりもして、それはそれで、小説の力に乗せられてしまっているだけのことかもしれない。

ということとは別に、こう書くとまったく唐突だろうと思うけど、小谷野敦が『反=文芸評論 文壇を遠く離れて』に収録された評論で藤堂志津子を絶賛していることにとても他人事めいたこととして接しながらも小谷野敦の評価の仕方にはとても納得できるというか、小谷野敦がどこをどう評価していて、その感受性のあり方はどういうものかとても良くわかるように思ったのだけれど、でも、ああいう仕方で小谷野敦藤堂志津子を絶賛できてしまうことに何か物足りないさを感じるというか、自分だったらこうは書けないな、というか、書かないなという風に感じるとき、自分の感受性を小谷野敦の感受性に対して優位に立たせてみてしまっている自分の姿勢を意識してしまうということがあって、そのことが、「5」の末尾を読んでいるときに、憤りというのに近い不愉快さというかある種の憤慨みたいな感情が、べつに顔は平静なんだけど目の奥にめらっと火がつくとでもいうか、思わず目がすわるみたいな仕方で、確固として生み出されてしまったということと、どこかでつながっているような気がするのだけれど、今はそのことについてこれ以上のことは書けない。