いつのまにか、舞台について書くページになっていたのだけど、もともとこのダイアリーをはじめたときには、いろいろ雑多なことをかくことになっていた。

それで、思いついて、雑多なことを書くようにしてみようかと思う。


このあいだ、横浜の第二合同庁舎の地下にある書店で、『カンバセーション・ピース』を購入した。新潮文庫に入ったので。仕事の合間にちょっとのぞいてみたのだった。

今日、仕事の帰りに、「恋愛小説を書こうとしていて、何も書いていない」といったくだりから、横浜球場にでかけて帰ってくるところまでを読んだ。

読みながらなんだかいろいろ考え事をしてしまう本で、それは、思考のリズムが文体になっているからなのだろうと思うけれど、ぼんやりと文字を追いながら描写の的確な把握とかどうでも良くなって、文体のリズムに乗せられて自分の考えがうかびあがって文章と併走しはじめる感触が心地よい。

でもそういう感想は読み始めてしばらく経ってから得たもので、はじめは家の描写がしちめんどくさいしなあとか思っていた。まあ、時々退屈したりうんざりしたりしながら読み進めている。

それで、保坂和志の文体との間の距離を感じながらこうして書き進めているのだけど、今日は、小林秀雄の「秋」という掌編のことを思い出していた。似ている、ところがあると思う。思考と感覚と、記憶と、についての思考を文体のリズムにおいてあらわそうとしていて、小説のようなエッセイのようなものであるという点で。

なんて思うと、人物の会話の部分があらわれて、それぞれの人物が会話の癖みたいなところから造形されていく仕方に触れると、そんな感想もつまらない思い付きであると思われてくる。

と、迂回しながら思いつくままに書いてきたのだけど、ちょっと書きたかったのは「恋愛」ということについてなのだった。

保坂和志は、というか、この小説の語り手は、というか、恋愛小説といっても恋愛という状態において世界が輝いて見えたりする活性化された状態のことを小説に書きたいといったことを書いている。

たしかに僕にもそういう経験はあったけど、なにも恋愛に限ったことではないし、恋愛をしていたらいつでも世界が輝いてみえてきたというわけでもなく、世界が輝いてみえるケースこそが本当に恋愛なのだとか考えてしまうのも間違いだろうと思うし、ああいう言い方だと恋愛というものの儀礼的な側面について見落とすとも思う。

だいたい保坂和志のものの考え方というのは、なんか、時々一面的な断定を有無を言わさずゆるがないものとして提示するようなところがあって、正直納得いかないと思うことが時々ある。