「しょうがの味は熱い」について

 小説に僕が求めているのは、空気感っていうか、人がいる佇まいとか、その間の気配とかを感じ取れるかどうかで、それが感じ取れる小説は読む甲斐のあるものと思う。綿矢りさの新作(短編というか中篇?)「しょうがの味は熱い」は読む甲斐のあるもので、ここに書くに当ってざっと読み返したけど2度目でも楽しく読めた。

 文体について。同棲している20代半ばくらいの男女それぞれの意識の流れに沿うようなモノローグの語りで成り立っている。それぞれの自意識が、文学的に形作られたものみたいで、つまり、それぞれの登場人物がよくある小説の文体に託すような仕方で自分の意識を形作っている、そういう小説だと思う。モノローグの文体が凡庸であるのは、それぞれの登場人物の「文学的自意識」の造形であると判断するなら、欠陥ではない。その効果をどう判断するかは別として。

 自分の自意識を構成しているモノローグが「文学的」であることに、会社員である僕は無自覚で、その文体の運動のままに僕の生活ははこばれていく。それに対して、主人公の「私」は、自分が感傷に流れたりすることに対する反省を繰り返していて、文体の落差(句読点の省略や段落下げの使い分けなど)が反省的な自意識と自己陶酔的な自意識との落差として描かれている。反省が感傷的に行われる場合や、絃に対する緊張として描かれる場合などが、繊細に描き分けられている。

 名前について。主人公の女は大学院生。同棲相手の会社員を「絃(ゆずる)」と物語の語り手として(意識の中でも)呼び、語りかける会話においてもそう呼ぶ。だが、この主人公の名前はなんだろう?作中には出てこない。語らいのなかでも呼びかけられないし、中盤にさしはさまれる会社員のモノローグの中にも出てこない。

 会社員のモノローグでは「早希」という名前が出てきて、「あれ、これ、主人公の名前っぽくないけど別の女?」と思った。詳細にその一節を読んでみると、「ゆず」という呼びかけ方が主人公の女性と違う。「絃」と正しく名前を呼ぶ主人公には居心地の悪さを感じる絃は、「ゆず」と呼ぶかつての恋人らしき女のことを思い出すことで癒されている。説明的要素は最低限に削られているがそのことが読み取れる仕方で書かれている。

 早希のことを、名前が出てこない主人公女性の「私」は知らされていないようだ。会社員の「僕」が自覚していなかったいびきについて語るくだりで、「彼に死んだように眠るねと言った人は、この響きを知らない」と、その存在にうすうす気が付いている程度であるらしいように描写されている。

 固有名と愛称をめぐる僕と私の非対称が、この小説全体の骨格というに近い構造をなしているようだ。

 夜空を明るくしていた雲から、ふいに雨が落ち始める。潔癖で几帳面な男に生活のすべてを合わせるように暮らしていた私が重ねてきた思いが、凝結するみたいに、生活をもういちど仕切りなおすという決意として語られる。雨の凝結に暗に例えられていた、空気や視覚として部屋の外に描かれていた決意の気分が、自分で作った自分だけのためのしょうが入りの紅茶の味として、身体の内側に感じられる味へと結晶させられる。

 口の中もある意味で身体の内にある身体組織の外であるとは言えて、身体の内外からの身体への刺激が身体ごと生活を別の場所に組み立てたいという決意へとつながる映像として配置される線分が、もうひとつのこの小説の骨格みたいなものとして描かれてくる。タイトルがこうなっている所以もそこにあるだろう。

 私の決意が果たされるかは作品の構成上わからない。夕食の準備からはじまって、私が深く眠るまでで閉じられるけれど、最後の冷めた反省の文体が絃に対する身体ごとの依存を確認して終わっているのは、決意の描写の鮮やかさと相照らして、いくぶん生活にだらしないことを自己嫌悪したりもしている私を造形する上で巧みな処理になっていると思った。

※事前に参照したネット上の感想など。
【新作発表】しょうがの味は熱い【綿矢りさ】
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/219.html
『しょうがの味は熱い』綿矢りさ: Lエルトセヴン7 第2ステージ
http://d.hatena.ne.jp/Trou/20080729/p1