a round の『青の辺りまで、暮らす』

a round の『青の辺りまで、暮らす』を見た(6/25昼の回)
a round 活動日記

世田谷ものづくり学校」は、小学校の校舎を改装してデザイン系などのベンチャー企業に貸し出したりしているわけだけれど、今回「a round」というグループの公演会場となったのは、そこで普段はドラマなど教室シーンの撮影に使われているという部屋で、つまり、教室がそのまま、改装されずに残された部屋なのだった。

教室の、黒板がある正面側、3分の2ほどが演技スペースにあてられていて、残りの後ろ側が客席になっている。その境目をなすように、黒板のある壁を写真撮影して実物大に再現した仮設の壁が公演のためにつくられている。その壁の、黒板のスペースがくりぬかれていて、その奥に演技スペースを覗き込むような仕掛けになっている。

黒板という、文字や図形がつかのま書かれたり消されたりするという平面が、つかのま演技が現れたり消えたりする空間への窓になっている、というわけだ。


観客が案内されると、すでにパフォーマーは舞台に居て、ぼんやり佇んでいたりするといった風情である。舞台には、ぬいぐるみだったり、ラジオだったり、様々なものが雑然と置かれている。

床に置かれた14インチほどのブラウン管モニターにカメラに向かってジャンケンのしぐさを延々と繰り返す女の子の映像がノーカットでワンショットらしい連続において映し出されていて、その画面に向かって小さなイスに座った女性パフォーマーが延々とジャンケンをする仕草を繰り返す、というパフォーマンスが開演前からずっと続いていた(と記憶している)。ずっと「あいこ」が続いているというわけだろうか。

そういう際限のない、しかし何がしかの意味合いのある、行為の反復というのが、公演そのもののモチーフを暗示している。


公演は、いくつかの短いパフォーマンスの繰り返しによって進行してゆく。メトロノームの音にあわせて、テンポ良く、男一人、女三人のパフォーマーが、生活の断片のようなさまざまな仕草や行為を繰り返す。

たとえば、ミシン台を踏みながらアイロンをかける。洗濯物を干す。洗濯物を吊ってあるロープに干す、といったシークエンスが延々と繰り返されていったりする。そのプロセスが繰り返されるなかで、舞台上の事物が少しずつ配置を変えていく。

あるいは、唯一の男性パフォーマーがトンカチで木材を組み合わせて小さな台のようなものを作っていく。材料を集めては、くみ上げる。上演時間が経過するなかで、台のようなものは幾つも出来上がって、それは最後に並べられてテーブルになる。

一個だけ置かれている、スチール製ロッカーの中にパフォーマーの一人がつかのま閉じこもり、ガタガタと震わせて、出てくるというパフォーマンスがあったりもする。扉にopen/closeと表裏に書かれた木の札が掛けられていて、中に閉じこもる前に、それをcloseにひっくり返し出たときにはそれを元に戻すということを繰り返していたりもする。

生活の中にありえる秩序立ち社会的な意味合いをもった行為が、断片化されて繰り返されているわけである。

それらの小さな行為の断片が繰り返されるなかで、舞台の様子はだんだんと変化していって、それにつれてばらばらに行為していたパフォーマーがやがて同じ食卓につく場面も生じたりするが、それは、ちょっとずつ食卓を準備するパフォーマンスが積み重ねられて、食卓につくという状況が整った後に発生するイベントなのだ。

音楽は、時折ラジオがNHK第二放送の語学番組を流したり、ゆったりとしたダンスビートのようなものを流していたりしたほか、パフォーマーの一人が歌を歌う場面も繰り返された。

寝ころんでマイクを握っていたのだが、それは、何かのJ-popの曲のような抒情的なメロディーで、歌詞はドレミファソラシドの繰り返しになっていた。メロディーの分節とのずれによって、「ドーレミーファー、ソーラシードレー、ミファソラシー、ドレー」といった感じで進んでいく。もちろん、歌われている音名の言葉と実際の音階とは、食い違っているわけである。

台詞のようなものもあった。それは、バウムクーヘンの作り方を説明するものだ。パフォーマーの一人が、たまねぎを服の隙間の胸の部分に詰め込んだり、ほうきの柄の部分を軸のようにして差し入れたトイレットペーパーをクルクルひっぱり出したりしながら、バウムクーヘンを作る作業についてのテクストを繰り返し語る。

バウムクーヘンそのものが、年輪のような模様の一つ一つを作るたびに、生地をまきつけては焼くという繰り返しによってできるものなので、その説明も、繰り返しの様相を帯びていて、「これで年輪一年分・・・・これで二年分・・・・これで十年分、20分の間にできました。でも食べるときには一瞬です・・・・バウムとはドイツ語で木という意味です。」といった台詞が、途切れ途切れになりながらも、何度も繰り返し語られてゆく。


こうした要素の全てが、生活の中にある、ルーチンワーク的なものを示唆しながら、舞台全体が、細かなルーチンからなるモジュールの組み合わせによって生活の場面が生成してゆくかのように進むわけである。

つまり、生活そのものを織り成している構造自体を模造することがこの作品のモチーフになっているであろうことは、上に見てきたように、作品の細部においても様々な仕方で示唆されていたと言って良いだろう。

教室という場所の、生活とつながりながらもそこから切り離されてもいる抽象性、その抽象性を誰もが生きてきたという具体性、が、そのモチーフを全体において枠付けている。


こうした説明がそのままでは当てはまらない要素もあった。後半に入ると唐突にダンスシーンが挿入されるのだ。CMでもおなじみといった感じの60年代くらいのロッククラシックがいきなり大音量でかかって、それまでの脈絡をかなぐり捨ててパフォーマーが乱暴に踊り、音がやむと元の淡々とした場面に戻るといったことが三回ほど繰り返された。マイケル・ジャクソンの「スリラー」を使った場面に至っては、プロモーションビデオの振付をパロディのようになぞっていたりもした。

確かに、連続的に営まれる生活の場にも突発事というのはあって、そういう場面でつかのまの高揚を楽しむといったこともあるかもしれない。そういった位相を描きたいという意図もあったのかもしれないし、コントラストの中に日常に近いパフォーマンスのあり方を照らし出したいという意図もあったのかもしれない。

そういう仕方で舞台の時間の一貫性を破りたかったのかもしれないが、コンセプト的な一貫性があやふやに見えてきてしまう展開ではあった。

それにしても、ダンスシーンには、しっくりこないような感覚が残ったのだった。なんだか、ただの中途半端な悪ふざけのような印象だけがあった。踊りの場面の何かこなれない印象は何に由来するのだろうか。どこか、パフォーマーたちは、気に沿わない動きを投げやりに繰り返しなぞっているようで、運動の悦楽といったものはまったくない。桜井圭介的に言えば、まったく「こわばって」しまっている。


このダンスシーンにチャーミングさが欠けている、その身体性というのは、上演全体においても言えるものだったように思える。ひとつひとつのパフォーマンスは、出演者それぞれが、あまり作為的では無いように、淡々と演じているという気配があったのだが、その演技の質はほんとうに素っ気無いもので、緊張感を欠いていた。

おそらく、テンポ良くそれぞれの行為が遂行されて、それがブロックのように組み上げらていくという進行の仕方も演技の質の印象を左右していると思うのだけれど、あらかじめ決められたことをただ遂行しているだけのように見えたのだ。

その注意を欠いて投げ出された風な行為の貧しさをあえて舞台に載せるという意図があったのかもしれないが、それを積極性に転ずるだけの何かを上演の中から見出すことはできなかった。

比喩的に言えば、それぞれの行為を断片的に切り取った時には、その行為の周囲が破断面をなしているはずだ。その破断面の繊細で鋭敏な突起が運動のなかに鋭くぶつかり緊張し合うような仕方で、たとえばニブロールの舞台は魅力を放っているのだが、a round の今回の公演に関して言えば、そうした繊細さは感じられず、どこか乱雑にそれぞれの行為が投げ出されてしまって、それぞれの行為とそれに相関した状況との関わりは、なにかにじんだぼやけのなかにうやむやにされているかのようで、悪しき意味で抽象化されてしまい、それは、まったく鈍くにごった響きをこもらせていたように思うのだ。

そういうわけで、演技が立ち上がってくる源をどう考えるのかについて、何か徹底しないものがあるのではないかという疑念が残った。


『青の辺りまで、暮らす』は丁寧に作られた作品ではあり、それなりのアイデアもあることはわかるのだが、どこかで釈然としないというのが正直な感想である。おそらく、世界観というか演劇観というか、現状認識において、作り手のどこかに何かが決定的に欠けているのではないか、そこで、ラディカルさが感じられないということではないか、と思う。

公演全体の印象は、こまごまとした素材(たとえばぬいぐるみであったり)がファンシーな印象を与えるといった趣味的な次元の相違を別とすれば、10年ほど前に「絶対演劇派」が行っていたような抽象的プロセスの展開を淡々と見せる公演に近いと感じたのだが、その絶対演劇派なら、思弁に傾きすぎていた嫌いはあるかもしれないにしても、上演の政治性を問い続けた点においてその上演が弛緩しきってしまうことは無かったと言えるだろう。そういう徹底さが a round には欠けていて、どこか上演を続けることに無条件で楽天的なのではないかという風に思われる。

つまり、絶対演劇派であるなら、演劇を上演することの根本的な反省や相対化がその方法に理由を与えていたわけだが、 a round の場合、方法の自覚は単なる方法の自己適応になってしまい、はじめから悪しき意味でのマンネリズムに陥りかけている。

上演全体が、ジェンダーによる役割固定を反省する以前の段階において牧歌的な童話のような印象につつまれてしまっているのも、そのことと無縁ではないのだろう。


『青の辺りまで、暮らす』というタイトルの、頭韻に流されて耳障りの良い気分が含んでいる甘さのようなものは、その欠如を象徴しているようにも思う。もちろん私が欠如としてあげつらおうとしている何かは、作家の姿勢にその根本において関わるものであって、私ごときがここで軽々しく埋め合わせることができるものではないだろうが、ともかくそのことを語らずには誠実にこの公演と向き合ったことにはならないだろうという感じが私にあることはまぎれもないことなのだった。

批判すべきことの根深さに戸惑いつつ、今は括弧を開いたままにして、とりあえずの結語を記しておくならば、こういう仕方で演劇を延命することは、演劇の緩慢な未病状態を生きるようなことではないかとも思うのだった。


(2005/7/1-7/2 記す)