タテヨコの「すくすく」

タテヨコ企画 http://tateyoko.com/ の公演、「すくすく」を見に行った(6/27夜の回)。

お値段がおてごろだったということもあるけれど、本物の幼稚園を借りて公演しているというのにも興味を持った。街で公演するポタライブとか 元学校の教室を使った a round の公演を見たばかりでもあり(http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20050625)いろいろな場所を演劇的に活用するという発想について考えたいと思っていたのだった。

タテヨコ企画主宰者の一人で作演出を手がける横田修さんは、92年から97年まで「青年団」に入っていたそうなんだけど、今回の「すくすく」を見ると、基本的には平田オリザ的な群像口語台詞劇だと言って良さそうだ。特に、人が出入りする場所の出来事を一幕一場のリアルタイム進行で描こうとするあたり、平田演劇の手法をそのまま踏襲している。

お話としては、幼稚園にこどもを預けている親達がこどもに見せるミュージカルのための練習をしていて、その練習の一日の様子を描くというもの。

そこで、劇中劇的に、その親たちが演じているミュージカルの場面が何度か繰り返し挿入される。この、ミュージカルシーンは、いわば素人くさい感じの、でも幻想味のある場面を展開するというもので、朝起きたら身体が無くなってしまって、その身体のパーツを探しに行くという童話的というか寓話的なファンタジーになっている。

このリハーサルシーンの劇中劇は、しかし、地となっている日常場面の演技の中に唐突に織り込まれてゆく。まるで、時間的連続のリアリティを破るように割って入り、躍り出てくる。

ミュージカルシーンは、素人芝居という設定のせいもあるのだけれど、身近な道具だけをシンプルにつかって、音楽も簡単なもので、でも、そういったちょっとした工夫でファンタジックな虚構が見事にうかびあがって現実感をさらって行くということが端的に示されていて、魅力的だった。

基本的には、幼稚園のお遊戯室みたいな広い部屋で、そこにある蛍光灯だけを照明にして日常場面は進行するのだけれど、ミュージカルシーンは、備え付けの照明施設を用いていた。幼稚園だけに、小さな舞台がそこには組まれているのだった。

この、現実の連続の中に虚構がまぎれこむという構成そのものが素敵だったのだけれど、何箇所か、このミュージカルシーンを練習日のリハーサルの場面として回収してしまうという処理をしていた。それは、逆に、虚を虚として括弧に入れてしまうようで、虚実が反転するような魅力を殺いでいると思い、惜しまれた。

そのような重層的な展開に魅力はあり、何人かの役者さんの存在感にもそれなりの魅力があり、身近な人間関係の中に常にあるようなドラマを取り上げようという姿勢も良心的なものであると思ったけれども、ひとつの作品としてみたときには、いろいろと不満も残った。


結論としては、上演は、幼稚園という実際の場所にまったく負けてしまっている、と評価するべきだと思う。幼稚園で上演されることで、逆に上演の弱さが引き立って見えてくるかのようだった。いわば、花壇のなかに置かれた造花を見るようなものだ。

一場面、その幼稚園に通っている子供とその親御さんだろうか、地元の人をエキストラとして起用していたのだけど、この上演で一番新鮮で魅力的だったのは、そこで登場した女の子だった。まあ、そういう具合で、日常描写という面では、おもいきり現実に負けてしまっているというべきだろう。

演出面で言うと、舞台上での人物の配置に説得力を感じなかった。それぞれの人が移動して、座ったり立ったりする、その空間関係が、作り物めいて見えたのだ。

たとえば、複数の人々が集うとき、座席が固定されているのでもなければ、それぞれの人間がその疎遠さ身近さに応じて、それぞれに距離を取ることだろう。その、お互いの関係の中に自ずと選ばれていく距離に、互いの気配を感じあう関係が結ばれてもいるのだろうが、その、互いの距離を無意識に感じあっている感覚が舞台から立ち上がってこない。


これは、位置関係以外についても言えることで、メインの対話が進行する背後で目配せがされたり、別の相槌が入り込んだりするというような日常場面の展開においても、それぞれのコミュニケーションの呼吸から場面が生まれるというよりは、互いにタイミングを逃さないようにきっかけを逃さないようにがんばっている、という風にしか見えなかった。

劇団サイトでは「リアルな関係性」を立ち上げると言っているが、その試みはまだまだ不十分だと評価すべきだろう。結局、現実的であることを装う作為性の方が目に付いた。

台詞のレベルで言うと、「私、何言ってるんだろう」といった台詞が二回、「私の言ってることおかしいですか?」という台詞が一回、使われていたのだけど、これらは、全て、唐突に本心を語ったり、自分の信念を語ったりする、という台詞に使われていた。

つまり、コミュニケーションの脈絡においては唐突であるけれども、劇作上要請される台詞をそこに置くときに、事後的に、その唐突さがなにかの心理的興奮などによって正当化されて、リアリティが保障されるような仕方の処理を台詞のレベルで行っていた、ということなのだろう。

逆に言うと、そういった類の安易な処理に頼りすぎだということが台詞のレベルで露呈してしまっている。

サイトでは「出演者がまるで自分の言葉のように話す台詞は、作者と演技者の中間ぐらいに位置して、リアルな関係性をカタチづくる一要素となるのだ。」と書かれているけれども、この中間という言葉を、作為を自然に見せるときに生じる妥協をごまかす言葉として用いないような厳しさを更に強く持ち続けてほしいものだ。

劇作全体においても、エピソードとかシーンとか使いたいものがまずあって、それにあわせて登場人物を造形したり、場面を作ったりしているように見える。

たとえば、普通だったらそんな場面でそんなことは言わないでしょう、と思われるような、なにかの葛藤を顕在化させるような強い働きのある言葉がドラマの進行の上での要請によって置かれていたりするのだけれど、それは登場人物の軽率さによって発せられたのだ、と理由付けするような処理が成されている。

いわば、ご都合主義的というか、「機械仕掛けの神」式というか、こういう場面が欲しいから、こういうアクションがここになくちゃいけない、という、目的から導き出された場面が、十分に場面の必然性に基礎付けられない仕方で配置される、という処理が目立った。

そういう処理は、日常次元の演技においては特に、その説得力を失わせるものとして作用するだろう。役者は心理的な必然性を欠いた演技を要請されるわけだから。


物語の大きな軸に、生真面目すぎてこどもとの関係や周囲との関係がうまく行かない母親と、奔放過ぎて誤解を招いてしまうようなシングルマザーとの葛藤が、ぶつかりあいのなかで互いに昇華されるという展開が据えられていて、これがラスト近くのクライマックスを成していた。

大人ぶって気取ることじゃなくて、自分の弱さとかも受け入れて感情的なトラブルもかかえこまないでぶつけあったりすることができるのが本当の成熟であって、こどもっぽさを失わないで、それを発散したりしながら、でも、それを無理に抱え込んだりするのではない、そういう風な関係が結べるようになるのが、良い意味での大人ってことじゃないかな、という主題がそこにはこめられている。

しかし、こういうとりあわせ、いわば、物語の常套手段ではないですか。この点でも「すくすく」という舞台は、そのテーマの真摯さに心打たれる面もあったけれども、心から満足するわけには行かない弱さを持った作品だったと言わざるを得ない。


ともかく、正直な感想を言っておけば、「すくすく」を見て、私は、平田オリザや「五反田団」がいかに傑出しているのかを、あらためて実感した。


とりあえずの結語として・・・・劇場から実際の生活の場の中に舞台を移すことは、やはり、かなり難しいことなのだ、ということは常にわきまえておかなければならないだろう。

(2005/6/29記す,6/30,7/2,7/20 一部修正)