新人類人猿 『ハムレットマシーン』

金沢の劇団「新人類人猿」によるHM/Wフェスティバル参加作品。麻布ディプラッツで見る。

とても洗練された演出だった。でも、それだけだった。
結局、いまや因習的(conventional)となってしまった演劇様式をなぞっているだけとしか見えなかった。

冒頭、コートを着た女優たちがラジカセをもって舞台に駆け込んできて、ちょっと古いタイプのラジカセを舞台や客席の奥においてゆき、そこからテープで吹き込まれた音声や音楽が流れ始める・・・廃棄された、時代遅れのオーディオ機器が、それぞれのテープに吹き込まれた音声や音楽を、テンポはずれに流してゆくとしたら、なかなか面白いことになりそうだ・・・と思っていたのだが、そのアイデアも徹底して用いられることはなく、ちょっと残念だった。

壁に体を投げかけ、貼り付けるような、黒いワンピースの女優たちの仕草は、とても軽く、薄い、身体感覚で、シャープな像を結んでいたが、その繰り返しはしかし、いまや見慣れたイメージを舞台の上に描きだすだけではなかっただろうか。

その前で、左右から一直線上に向かい合い、歩み寄っては去ってゆく、全身雨合羽で身を覆ったような(顔も同じビニール素材で覆われている。)二人が、やがて、抱擁しあい、平手打ちを交し合う、という場面も、イメージとしては見事に過不足なく舞台から浮かび上がるものだったが、その洗練されたイメージの操作は、デザイン上の計算も透けて見えるだけのものではなかったか。

そのような冒頭から、ハムレットマシーンの台詞の一節が、雨合羽を着ていた二人の男優によって朗唱されてゆく。しかし、なぜ、二人で語られるのだろうか。二人であることの必然性はどこにあったのか。そして、「私はハムレットだった」という台詞が、四人ほどの女優と、二人の男優との、全出演者によって叫ばれなければならないのか。

千賀ゆう子ユニットの公演でも感じたことだが、複数のパフォーマーにテクストを分散することによって、結局、テキスト本来の力に向き合う姿勢が弱いものになってしまっているように思った。誰の口から言葉を発するのか、あるいは、誰のものでもないような言葉として、舞台に音声を響かせるのか、どちらにせよ、言葉を舞台に立ち上がらせること自体に劇的な緊張が伴わなければ、特定の戯曲を上演する意義は無いだろう。
その点で、複数のパフォーマーに言葉を分散させる事が、戯曲の言葉自体といかに対峙するのか、という課題をやり過ごすものとしか見えなかった。

むしろ、愚直にオフィーリアに該当する台詞は女優が、ハムレットに該当する台詞は男優が演じたほうが、まだしもましだったように思った。

ヨーゼフ・ザイラーが『東京演劇アンサンブル』の若手俳優たちと作った『ハムレットマシーン』をたまたま僕はみているのだけど、ザイラー演出では、即興的にそれぞれのパフォーマーハムレットマシーンのセリフを自らの判断で口にしなければならない。少なくともその点で、パフォーマーのそれぞれが、そのつどの瞬間に、ミュラーの書いた言葉を口にする責任を全面的に負い、ミュラーの言葉と対峙しなければならない、という構造になっていた。

新人類人猿の公演では、ミュラーのテキスト『ハムレットマシーン』から実際に声に出されたのは、ほんの一部の抜粋ではあった。なぜ、そこだけが抜粋されたのか。舞台でヴィジュアルに展開される光景と、テクストのそのほかの部分はどんな関係にあるのか、作品の構造とテクストの構造の関連は見えてこない。

たとえば、手で照明を持って振り回したり、煙幕たく装置やら扇風機やらを振り回してみたり、そういうのは全部イメージ操作でしかない。紙飛行機を後ろ向きに投げてみたり、ヘリコプター状に回転する紙切れを大量に飛ばして見たりしても、それもイメージ操作でしかない。

巧みではあるが、その巧みさは、安易さの裏返しなのではないか。
既に確立されてしまった演劇の方法論の上に、ミュラーのテクストを載せるということは、ミュラーのテクストと対峙する緊張を回避する手立てにしかなっていなかったように思う。

(初出「些末事研究」/2010年3月11日再掲)