七ッ寺プロデュース『ハムレットマシーン』

HM/Wフェスティバル七ッ寺プロデュース、寂光根隅的父(ふつう読めないよねこの名前)演出の『ハムレットマシーン』を観る。

名古屋の小劇場の拠点という七ッ寺共同スタジオのフリーペーパーは東京でも配られていて、前からちょっと気になっていた。寂光根隅的父という妙な名前の人のことも、その関連で目にしてはいて、さて、どんなことをやってくれるのかな、と、未知のものへの期待を多少は膨らませて劇場に足を運んでみたのだが、勝手な感想としては、可も無く、不可も無し、といったところ。

基本的に、テキストを冒頭から最後までほぼ忠実に辿っていて、カットされた文章はないようだった。ただし、別のテクストを挿入した場面もあったようだが、確認は取っていない。しかし、違和感はなかった。

開演まえから、出演者達は舞台をゆっくりと歩き回っている。一歩一歩、足をあげてからおろすまでに一分近くかかるような歩き方。舞台上手の後ろの方に、天井に向けて斜めに梯子が、上手側に60度ばかり傾く仕方でしつらえられていて、舞台の上には西洋風の棺をかたどったような、しかしスケールは小さく縦40センチばかりのものが5、6個ちらばっている。ほとんどが黒いが、白いものもひとつばかりある。折りたたみ式安楽椅子が下手に、奥に車椅子がある。出演者達は、それぞれにカジュアルだったり礼服調でも日常に用いられるような服装をしているが、色調は黒か、それに近いものに統一されている。(しかし、『ハムレットマシーン』というテクストは、黒をひきつけるものがあるのだろうか。なぜか、黒い衣装のものが多い気がする。)

民族音楽調の、しかし、リズム的にはドラムンベースっぽいような、めりはり効いた音楽が流れて開演。テープ録音された「私はハムレットだった・・・」といった独白が続くなか、出演者たちは、それぞれ、思い思いのポーズを取り、何かそれぞれが思い思いのことをしている。(ロバート・ウィルソンの『ハムレットマシーン』を意識しているのかな、とも思う。(観たことは無いけども。テープでテクストが流されたそうだ。)このままテープ音声でテクストを流し、それと直接関係ない光景を舞台で進めるとしたら面白いかな、と思ったが、そういうことにはならなかった。)

煙草を吸う仕草をしたり、バランスを取っていたり、ヘッドフォンをしながら歯を磨いていたり・・・場所を移動しながら、ほかのパフォーマーと絡むこともある。マフラーをかけたり、かけられたマフラーを外して、相手に掛けなおしたり・・・独白のイメージとはかけ離れたような光景が舞台で展開される、そんな状態が続く。そこでは、それなりに、舞台に緊張感はあったように思う。

その後、テープによるナレーションは終わり、梯子の上に上った役者が「ハムレット」役となって独白を継続する。「ホレーシオ登場」の場面で、独白者が交代したところで、体操で使うような笛に合わせて出演者が整列したりするようなパフォーマンスが展開される。そして、「ホレーシオ退場」という台詞にあわせて、レッドカードが出されたりするような展開もある。(ギャグなのか、としても、あまり受けなかった。)

オフィーリアが登場する場面では、女性の胴体をプリントしたTシャツを着た男優が、服をはだけ、Tシャツを見せてオフィーリアの台詞を読み上げたりする。そのまま、「私は女になりたい」というハムレットの台詞を口にして、周囲から嘲笑されたりもする(性別を置き換える演出というのも、他の場面は母親役を女優がやっている場面もあり徹底しているわけではなく、思いつきのレベルを超えていないようだった。女になりたいというのを嘲笑うというのも、通俗的といえば通俗的)。

そして、暗転、冒頭の音楽が繰り返され、爆撃音にあわせて、出演者達が飛びはね、倒れるような場面が、暗転を繰り返しながら断片的に繰り返されたりもする。戦争で無意味に殺戮される人々の暗示か。しかし、身体的なパフォーマンスとしては、ある一定の質を実現してはいるものの、取り立てて見事というわけでもなかった(映像的演出としても、自動焦点の公演で書いた事を覆す必要を迫るものではなかった)。

そして、舞台の光景は冒頭の場面に戻る。舞台上の光景としては、元に戻るのだが、テクストとしては、続く部分が順番に語られてゆく。今度は、文章が細かく断片化され出演者それぞれに割り振られ、切れ切れに朗誦されたりもする(翻訳テクストでの、空白による区分や行わけにある程度対応しているようだった)。

最後の「こちらはエレクトラ」ではじまる、オフィーリアの独白は、テクストのト書き的な部分に(というのも、『ハムレットマシーン』は、どこまでがト書きで、どこまでが台詞なのか、といった区別の不明確なテクストであるからだが)ある程度忠実に上演された。舞台は青色の照明に満たされて、「海底」という指示に従っている。女性の胴体をプリントしたTシャツを着た(もう一人の)男優が、車椅子に座って、低く冷徹な調子で独白をするのも、ほぼ、テクストの指示通りである。このラストの処理は、愚直ではあるが、それなりに効果的であったと思う。テクストの上演としては、ここでおしまいのはずだった。

しかし、その後、ローリングストーンズの2002年にリリースされた曲に合わせて、出演者全員が踊って見せるシーンがその後に付け加えられていた。あまり、その趣旨もわからず、全員でのダンスシーンは、様式的にも、ミュージカル調を取り入れようとした小劇場演劇にありがちなパターンそのままという感じで、蛇足としか思えなかった。

テクストを尊重している姿勢は見えるという点、そして、安易な解釈は許さないような舞台上の上演行為の併置にはそれなりの緊張感はあった、と言う点を評価できるものの、それ以上になにか訴えかける力、迫ってくるものはなく、身体表現的にも、それほどめざましいものはなく、全体に余計な要素が混ぜられている点が一貫性、徹底性に欠ける点はあまり評価できない、というわけで、可も無く不可も無い、という印象にとどまったというところ。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)