舞台のスペクタクル性について −「猿若吉代の会」を見る−

チケットが当選したので、11月24日に国立劇場小劇場に日本舞踊の公演を見に行く。猿若吉代が、自身の振付た清元「柏の若葉」(いわばソロ)と、父であるらしい猿若清方の作品「かしく道成寺」(芝居がかった規模の大きい作品)を踊るという会だった。

日本舞踊は、モダン/コンテンポラリー系のダンサーとのコラボレーションで見るか、テレビで見るかくらいで、清元と常盤津の違いもわからない門外漢だ。なので、勝手な感想を書くだけだ(まあ、いつも勝手な感想ではないかと言われればそれまでだけど、いつも以上に勝手な感想である)。

日本舞踊をみると、いつも思うことだけど、やはり、古典となるほどに型が定まった動きは、とても心地の良いもので、ダンスを見ることの快楽に安心して身をゆだねることができる。

しかし、日本舞踊の振付のシステム、言葉との対応のありかたみたいな約束事を読み解くことができないと、長い時間舞台に集中して視線を注いでいることはなかなかできない。いや、至芸という言葉にふさわしいほどの人が踊れば、作品構成がどうのといったこと抜きに、魅了されたままいくらでもはこばれてしまうのかもしれないけれど、ともかく、読み解きのあり方がしきたりの中に埋没したままになっているあたりに、日本舞踊というジャンルが、閉ざされた袋小路の中にある所以があるのかもしれない、と勝手に思う。

「かしく道成寺」という作品は、芸者がプロとして成長する姿を作品にまとめるって趣向らしく、途中で「太鼓持」という役名の男ふたりが絡んでコミカルな幕間劇みたいなものが入ったり、獅子舞が入ったりという大掛かりな作品だったが、まあ、門外漢から見ると、ほとんど「コメディお江戸でござる」と変わらないノリにみえる(しかし、獅子舞って舞っていうくらいで、舞踊なんだな、と改めて気づかされた)。

途中、クライマックスで、舞台のセットとして組まれたお座敷の障子が開け放たれる場面がある。すると、お座敷は二階だったらしく夜空に夜桜の梢の先が輝いている様子が目に飛び込んでくる。桜といってもただの造花であり、只の青い幕に照明があてられているだけであることは見た目の上からもわかっているが、そのイリュージョンに一瞬魅了されてしまった。二階からの情景という設定も、見えない広がりの印象を増しているようだ。開かれた空間に視線が吸い込まれてゆく。その前で、きらびやかな花魁が、物憂げに、しとやかに、舞うのだ。

たとえば、ぜんぜん見たことはなくて「食わず嫌い」なのだけど、フィリップ・ジャンティの舞台を見てもがっかりするだろうと思っている。単なるイリュージョンを狙った舞台よりは、造形性が際立つ舞台の方に、本当の感動があるのだ、という信念がある。この違いについては、きちんと論じておかなければならないところかもしれない。

ところが、あっさりと二階から見た夜桜のイリュージョンに夢中になってしまうとは、なんたることだ。ともかく、自分の感覚のありようについて考え直さなければならないと思いながら舞台を見ていた。

ところが、猿若吉代が舞う芸者が舞台を去って、太鼓持ちやらお獅子やらがコミカルに現れているときには、夜桜の情景は魅力を失って、ただのセットとしか見えてこないのだった。再び、猿若吉代が現れると、夜桜の魅力がにわかに蘇る。

まあ、舞台効果についてのありきたりな一経験に他ならないわけだけど、装飾的なもの、背景的なものに、単に装飾や背景には終わらない魅力を与えるものがあることに改めて注意を促された。舞台芸術の場合、その息を吹き込むものは、パフォーマーの存在感のようなものであることもあり、そこに、芸と呼ばれるものの精髄があるに違いない、と思う。といっても、論ずべきことは山ほど残されたままだが。