『わが星』とままごとの危機、あるいはセカイ劇場+
柴幸男さんが自分の団体として立ち上げた「ままごと」名義の新作『わが星』を見てきた。
http://www.seinendan.org/jpn/infolinks/infolinks090809.html
この作品をみて、柴さんがどこで勝負していくつもりなのか、はっきり見えたような気がする。それは、ある意味では後退戦のようなものになるのかもしれない。でも、それもひとつの戦うべき場なのだろうと思った。
以下、作品の結末も含めて、できる限り舞台の全てに触れながら、若干の感想を記しておこう。
わが星/地球座
『わが星』では、三鷹市芸術文化センターにある「星のホール」を、舞台と客席の区別が無い部屋にしてしまって、その中心あたりに大きな白い円を広げて、そこをステージにしている*1。客席は、その円を取り囲むように設置されている。
冒頭の場面では、円になったステージを役者たちがぐるぐると円をなしてまわりながら、声をあわせて言葉遊びのようなセリフを唱えていく場面があって、それは、宇宙の始まりのことを語ったかと思うと、東京の通勤風景を語ったりするような、飛躍の多いものだ。そこに作品のモチーフが畳み込まれている。
その後、主人公らしい女の子の誕生日の場面を、なんども繰り返すようなシーンがあったりして、作品は、時系列的ではない仕方で断片的なシーンを折り重ねるように進んでいく。
主人公の女の子が「地球」ちゃんで「ちーちゃん」と呼ばれている。団地の隣の部屋の同い年の女の子が月ちゃん、というわけで、その二人が出会って成長してってストーリーが、この演劇で一番物語らしい展開をする部分になっている。
つまり、わが星=地球、というわけだけど、シェイクスピアがやってた小屋として有名な劇場がグローブ座=地球座、でしたね。
そして、その地球座が、宇宙をあらわす円という象徴を象るように設計されているってことを思想史を遡って示したのが、フランセス・イエイツの『世界劇場』という本だった。
- 作者: フランセス A.イェイツ,藤田実
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1978/01/01
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
『わが星』では、円の周りをパフォーマーたちが回ることで、地球の公転だとか、時間がめぐることをあらわそうとしている。
そういう、宇宙を象るものとして円という図形が劇場の中心に置かれて、それを取り囲むように客席が置かれるってことは、ある意味、劇場史の起源を換骨奪胎するような造形だともいえる。
そういう意味で、この舞台作品が円を中心に舞台を再構築してみせたことは、西洋からの影響を受けて始まった、日本の近代演劇史の起源を暗黙のうちに参照指示している。
『わが星』ってタイトルとかモチーフって、ひょっとして「星のホール」という場所でやることが先に決まっていて、そこから出てきたのかもしれない。その後先は別にして、「星のホール」がほんとに星のホールになっていたのだから、まずその点において、星のホールは十分祝福されていたといえる。
時計仕掛けのセカイ劇場/ワイルダー風
ところで、『わが星』というタイトルを聞くと、すぐ、ワイルダーの『わが町』のことを連想しますね。柴さん自身、来年はフランケンズの中野さんとワイルダー特集企画をするそうで、そのチラシでは「ワイルダーの新作を作るのが目標」だなんて柴さんは言っている。
確かに、『わが星』は、作品の構想の仕方において『わが町』にアイデアを借りている部分があるような気がする。多分、生きていく場所を死後から振り返るような視点の設定の仕方、そこから、個別のドラマというよりも生きる条件のようなものが切り出されてくる仕方が、『わが町』から受け継がれたところじゃないかと思う。
町よりも星とか宇宙の方がスケールが大きいわけだけど、物語の要素としては、むしろ団地の一家に生まれた女の子の一生という程度に限局化されていて、それがビッグバンから太陽の消滅までになぞらえられている。身近な話と宇宙全体を直結しちゃうって、まるで「セカイ系」っぽいですね。
この公演は、電話でアナウンスされるような時報のリズムがほとんど絶えず刻まれている。それは、開演のアナウンスが「四秒後に明かりを消します」とか「四秒後に開演します」という、ちょっと極端な仕方でなされるところからすでに始まっている。
終演のアナウンスも、終演まぎわに、上演を中断するようにして「あと何分で終わります、あと四秒で再開します」という風になされる。
これは、作品の基調となる秒刻みの拍子という虚構化を、開演と終演の挨拶という現実の境で虚構を枠付ける儀式に及ぼしていることになる。この点で、この舞台は、舞台を世界の複製とし、世界を舞台の複製と見せるような、ある種、「世界は舞台」という世界劇場的な理念を継承しているとさえいえるのだけど、それが、時報のようなパンクチュアル(punctual)さによって印象付けられている点で、世界は切り詰められた姿で示されている。
本当の宇宙の時間は、秒刻みで動いてはいない。
この時計仕掛けがもっている効果は、だから、一種のまやかしだ。秒刻みの経済的合理性やお役所仕事的な決まりごとによって動いているような、ある種誰もが身につけた社会的な時間感覚によってすべてが覆い尽くされている。
演劇史的な起源において、本来の「世界劇場」では宇宙論的に意味づけられた秩序によって把握されていた世界の広がりは、この舞台では、数量化された管理から逃れられない領域としてあらわされている。
舞台の進行において、人生の始まりと終わり、宇宙の始まりと終わりが、まるでビデオを編集するように、早回しで見ることも、巻き戻してみることも、いくらでも再編集できるものとして提示されるのも、この時報的なリズムが操作、管理可能なものとして宇宙を枠付けているからだ。そこには、動画サイトで見る画像が、常に、時間表示と共に示されている、そんな経験の様式も反映されているのかもしれない。
時報的リズムにおいて、日常と宇宙が短絡されることは、いわば、世界の豊かさを見失った場所から世界を取り戻そうとするような、厳しく追い詰められたところでなされる作業だといえる。そういう意味で、この舞台作品が再生した劇場を、ひとまず、セカイ劇場って言っておきたい。
音楽性/総体性
実際、秒刻みの拍が舞台に貫かれているので、セリフとか演技とか、自然になされているようでいて、全て、厳密なタイミングが指定されているわけだ。その秒刻みの拍子にあわせて、口ロロの音楽がポップで叙情的な彩りを舞台に加えていた。
そこでセリフがラップ調になったりするのは、すでに柴さんが『御前会議』の上演で確立した手法だった*2。手法的には、たぶん、柴さんが今まで試みたことの集大成のような作品になっているのではないかと思う。
ただ、そこでラップ調のものがあるといっても、それは、先鋭的な試みであることを意味しない。むしろ、近過去の日本語の様式を集大成しようとするような視線の下に、舞台にかき集められた要素のひとつであるという風に見える。
セリフとか劇の様式としても、ある意味、80年代以降の演劇で試みられてきたいろいろな様式を集大成するような感じがあった。
団地の家族の場面が繰り返されるときには、舞台の中心には、丸い木のちゃぶ台が置かれて、天井から丸い2段式の、居間に吊り下がっていそうな蛍光灯が下げられている。そこで繰り広げられる、テレビを家族で見ながら食事するような場面は、高度経済成長期以降の核家族のよくある情景を振り返っているようでもある*3。
手法の上でも、内容面でも、この舞台作品は、作家がひとつの舞台に込められるあらゆる全てのものを盛り込もうとしているように見える。あらゆることを含みこむひとつのセカイとして舞台を造形しようとする志向が作品を枠付けているように思う。
そうした、全てを総合しようとする志向は、全てを振り返るような身振りと一体になっている。つまり、舞台に実現されるのは、回顧的な総合である。この舞台にこめられた情景や感受性のすべてが、回顧的な眼差しの下にあるということが、この作品の上演形式を全体として規定している。
断片的で多様式的なこの作品は、振り返る視点において現れてくるようなモザイク状の全体性を持っていて、回顧的視点のなかで、ビッグバンも演劇史の起源も、時計仕掛けの装置のなかで、ひとつのパースペクティブのなかに収められる。
舞台は、振り返るための装置になっていて、その装置の下では、世界も人生も、すでにどう終わるか見えているものになっている。そうした眼差しの下に、今過去のものとして消え去ろうとしている生活様式と、演劇という表現形式が、浮かび上がってくる。
ギャグの転用/駄洒落の倒立
言葉の面においては、この舞台作品は、会話劇的な調子から、ラップ調だったり、群読的だったり、様々な様式が混交されたものになっているが、駄洒落のような言葉遊びが随所に重ねられていた。そうしたギャグみたいな仕方でダブルミーニングを積み重ねることで、舞台を飛躍させていくという手法は、野田秀樹をはじめ80年代小劇場において多用されてきた言語技法だったのだろうけど、『わが星』での駄洒落は、私が見た回では、あまり笑いにはつながっていなかったようだ。
駄洒落みたいなものが、笑わせるギャグとしては成立していなかった、それは、駄洒落が、ドラマを展開させる推進力を与えるものにはなっていなかったということだ。むしろそれは、女の子の生涯と地球の一生を重ね合わせるというダブルミーニングをコンパクトに収めるための仕掛けになっていたようだ。
つまりギャグは逸脱ではなくて、収束のためのもの。きっちりと収めていく役割を担っていた。収束する先はあらかじめわかっている。そこでずっこけるものは何もなく、調子が外れることもないのだから、笑いにはつながらないのも、当然だといえる。
その意味でも、ギャグは構成要素の一つとして、回顧的な視線のなかで、ひとつの継ぎ手のようなものになっている。それをどのように名指すかは別として、機知に近いような表現様式が、形式的に、笑いを起こしようがないものにされている。その点で、この舞台のギャグ的要素が、どこかで生気に欠けるような、おとなしく慎ましやかなものという印象を残すとしても、当然であると言える。
望遠鏡/自転車
地球になぞらえられる女の子は、望遠鏡か顕微鏡かわからないまるで万華鏡のような何かを誕生日プレゼントとして与えられて、小道具抜きで手の仕草でそれを覗き込む演技が繰り返される。そこに見えるのは、地球の上で展開する生命の歴史や人類の歴史なのだった。
そして、望遠鏡で地球らしい星をみているどこかの男の子と理科の先生らしい二人の対話が、ところどころにさしはさまれる。その男の子が、ついに地球役の女の子と出合って会話をする場面がクライマックスにおかれていて、それが最後のシーンになっている。
最後、セカイの中心で出会う男の子とちーちゃん二人は頭上の円型の蛍光灯に照らされていて、その蛍光灯が消される時点が、死の瞬間に重ねられていて、それが終演のタイミングでもある。
地球の命運、セカイの運命と女の子の一生を重ね合わせるというこの舞台作品の構想において、一番弱いのが、この、互いに望遠鏡を覗きあうカップルの描写だといえる。
理科の先生と男の子の関係が、同一人物の過去と未来であるかのように示唆され、そこで、校則と光速を重ね合わせた駄洒落において、校則を超え、光速を超えることで、遠くに見える星の光が滅びる前の時点にたどり着くことができる、という劇的図式が、円のなかで運行される舞台の一番外の両極、舞台をはさんだ客席がある両側で、理科の先生と生徒との会話として、何度か舞台の展開にさしはさまれる。
そして、その男の子が、自転車で坂道を駆け下りる、未来に向かってわきめもふらず先もわからず突き進むような、さわやかさの塊のようなイメージがその役の俳優のモノローグで描かれる。
柴さんの前作『少年B』では、決して動くことのなかった自意識の中心の自転車*4が、この舞台では、実際に運命を遡って出会うはずもない遠くの女の子のいるところまで駆けつける運動として舞台を鮮やかに駆け巡る。
そうした、純粋な疾走感というのは、それはそれで魅力的な像を舞台に結んではいるのだけど、青春ドラマの上澄みのようにも思える。澱のようなものは、すっかり捨て去られている。
出会うきっかけも、男の子が地球=女の子に夢中になるプロセスも、ドラマとしては描かれない。ドラマとして描かれる代わりに、なんとか辻褄をあわそうとしている。光速と校則の重ね合わせも、そのひとつであり、理科教師と少年の重ね合わせもそのひとつだ。しかし、そうした仕掛けは、図式としては劇的だけれど、どこかその図式を展開させる劇的動機を欠いていて、何か全体の展開に噛み合っていないように思われる。
しかし、そこで何か辻褄あわせをでっちあげるような挿話が重ねられたり、心理的なプロセスが説明されたりしないことは、むしろ、出会うことに理由なんかないし、それはいつだって説明できない奇跡のようなことだということを、ぎりぎりのところでかろうじて示そうとしているのかもしれない。
愛というのは、不可能を超えようとする何かであるということを、校則と光速の重ね合わせは示しているのかもしれないし、そこで、世の中のことを知り尽くして達観する成熟と、がむしゃらに可能性に賭ける若さとの間の対比が、その切断において示されていることも、劇としては破綻しているけれど、その破綻は、むしろこの大切な主題に対する作家の誠実さの反映と受け取ることもできる。
常に中心にある家庭劇と地球のドラマに対して、男の子と理科教師が位置付く場所はよくわからず、あやふやなままに終始する。その点で、物語としては男の子と理科教師の挿話が宙ぶらりんなままなのだが、男の子と理科教師のいる場所は、どこでもない場所としての客席そのものなのだと言っていいのかもしれない。
おそらく、望遠鏡/顕微鏡をのぞき込むというモチーフと、遅れて届く光によって見える像は常に到達不可能な遠さにあるというモチーフが、劇場の形式において、舞台と客席を隔てる見えない壁と合致している。だから、男の子は、客席の側から舞台の中に飛び込むのだ。
しかし、それが、セリフの上では縫い合わされていない。解釈可能な断片として投げ出されているだけだ。その点が、この戯曲が戯曲としては未完成のままに留まっている点であり、言葉を積み重ねることが舞台造形との間に埋められない距離を残している点だ。
だけど、その未完成の隔たりを、自転車の疾走だけで飛び越てしまう。不覚にも、自転車の疾走に感動させられてしまったのだけど、それが感動的といえるのは、劇的造形においてセリフ劇としての未完成をすっとばして完結させてしまっているからだ。舞台造形としては、過不足なくちゃんと完結してしまう。乱暴な疾走がなんだかわけもわからずさわやかな様子ですべてを完結させるのだから、感動的でないわけがない。
しかし、その完結は、豊饒さにはつながらず、出会いは、生殖にはつながっていかない。全ての重ね合わせは、あらかじめ定められた円環を収束させるためだけに機能する。
セカイの果てのボーイミーツガール
セカイ系フィクションにおいてボーイミーツガールの物語が綴られるとき、男の子が担う役目は、傷つきやすい女の子を見つめ続け、理解してあげることだ。そんな女の子と男の子の関係という点では、『ほしのこえ』も『涼宮ハルヒの憂鬱』も同じ形式を反復しているし、今年アニメ化された『化物語』も、男の子は主人公である以上に視点人物であって、傷ついた女の子を理解してあげる存在として造形されている点で同じ系譜の中にある*5。そこでは、生殖につながる性的なことがらの一切は、あらゆる誘惑や暴力にさらされるような切迫したものとして現れるのだが、生殖に関わることは、あらゆる誘惑や暴力が伴うことを避けられないとしても、しばらくの間はともかく慎重に遠ざけておくべきこととしてあつかわれる。
その点でも、『わが星』は、セカイ系フィクションの構造を踏襲しているところがある、というか、同時代の表現として成り立っているといえる*6。そういう面も含めて、全てが、回顧的なまなざしにおいて造形されている。
自転車の疾走によってかけつけた男の子がたどり着くのは、ちーちゃん=地球の死の瞬間であり、そこで交わされる唐突でおずおずとした愛の言葉は、死ぬまで全てを見ている、という言葉なのだ。
まるでどこかの路上であったかのように出会ったふたりを照らすのが狭い団地の部屋やアパートに似合いそうな輪になった蛍光灯のしらけた光だということは、路上も居間も、もはや生き生きとした空間ではありえないということを告げるための重ねあわせであるようだ。
ままごとの危機を危機として受容すること
柴さんの団体が「ままごと」と名づけられていることは、何か、開き直りのような、自嘲的なような感じを受けなくも無い*7。小劇場由来の演劇なんて、所詮はままごとのようなものだ、というような。
ここで、「ままごと」というのが、演劇の原点を取り戻したいという志向のもとに選ばれているとしたら、それはむしろ、ままごとというあそび自体がすでに滅びかけているという危機的な認識の下に選び取られているというべきだろう。
ままごとのモデルになるような家族がすでに崩壊の危機にある。おさない子どもたちは、恋愛のロールモデルならたやすく取り入れてみせるかもしれないけれど、どんな幸せな家庭像をまねしてみせてくれるのだろうか。今でもままごとができる遊び場があるとして、それはどんなコミュニティーに支えられているのだろうか。調べてみたことはないけど、幼児英才教育が珍しくないのと同様に、もはやままごとが成立しない環境は珍しくないように思われる。
ままごとが失われかねない事態が進行しているとして、公共劇場でままごとの名を冠して小劇場経由の演劇様式を上演し続けることは、決して、ままごとの復興にはつながらない。それは、世界からままごとすら失われつつあることに対する代償行為のようなものでしかありえず、さらにまた、演劇自体が亡びかねない状況に対する危機的な意識を、回顧的な眼差しのもとで、追悼のように示し続けるような営み以外にありえないようにも思える。
ままごとという団体を立ち上げて青年団から独立するということは、つまり、そのような場所で戦うことを柴さんは選んだということなのだろうと思った。
『わが星』でいささか唐突に示される、手をつなぎたい、という言葉は、舞台と客席の間の見えない壁を乗り越えたいという言葉にも聞こえる。俳優たちが、客席のそこここに散らばって座っていたり、そこから声を挙げたりしていることも、演劇という制度を、それが立ち上がる場所、客席と舞台の区別も無いような、ままごとが成り立ったときのようなひとつの世界から取り戻したいという願いにつながるもののように思える。
しかし、いずれそのような世界は失われてしまうことを前提にすること、それでもなお、客席と舞台が区別された、公共劇場という場所を選ぶこと、それは、もはや後退にしか見えないような選択だと思うのだけど、公共劇場を劇場として取り戻すという不可能なことを、演劇を回顧しつづける儀式のようなものとして継続することを、柴さんは選んだのだろうと思う。
舞台の中心におかれる時代遅れの丸い木製ちゃぶ台は、はじめは照明の転換にあわせて巧みに出し入れされていて、うっかりした観客なら、舞台の転換に気がつかないほどだけど、後半では、それが、舞台の下から誰かの手で出し入れされていることが、あからさまに示されていて、それはおそらくイリュージョンの種明かしをしておいたということなのだろう。
それがどれだけ作為的なことだったのかは知らないけれど、そこにおいて、パンクチュアルな舞台の進行は脱臼していただろうし、いきなり知らない人と手をつなぐのは気恥ずかしいし何かのまやかしのような強引さがあるかもしれないからちょっと勘弁してほしかったりするけど、つくりものめいたちゃぶ台が不器用に出し入れされるところで、舞台はセカイの中心でちょっとコケていたのだし、だから、客席から舞台に微笑みを返すこともできたのだ。
そんなところにかろうじて成り立つような、ままごとの危機を危機として受容することのできるきっかけが、この舞台には生まれていたような気もした。それはまるで焦土に萌えきざすかすかに喜劇的な何かの名残のようなものだ。
(追記)核家族に祖母が同居していた件で注を補足。(10月13日)
※参考
わが星の半分は「夢+夜」だと思ってます。残り半分がクチロロで、残り半分がワイルダーですね。
□ 少年王者舘とRHYMESTER: cassette conte
*1:部屋の中心からそれて、ちょっと本来のステージ寄りになっていたようだけど、それは照明機材の都合だったようだ。見上げると、幕や緞帳の類が下がっているのが見えた。
*2:柴演出『御前会議』について書いたレビュー。 http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20080415/p1
*3:厳密にいうと、祖母が同居しているので、核家族とはいえないかもしれないが、核家族が祖母を引き取ったということになるだろうか。祖母役を男性俳優が演じていた不自然さも含めて、核家族化において祖父母が「異物」化し、「負担」になっていく構図を描こうとしているともいえるかもしれない。嫁姑関係がギャグのように描かれていた点もそうした視点から解釈すべきことだろうか。
*4:『少年B』を自意識の構造の舞台化として評したレビューはこちら。 http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20090505/p1
*5:怪異うんぬんというのは、理解するということを劇的に描く仕掛けと言ってよい
*6:暴力や誘惑につながる面は、ほとんどあらかじめ遠ざけられている点が一番の違いであるといえるかもしれないし、その点で劇場と二次元メディアの違いに形式的な分析を施す余地もあるかもしれない。『わが星』を、「バナナ学園純情乙女組」の隣においてみること。
*7:「りたーんず」のコンプリート特典で配布された楽屋落ちお楽しみ戯曲で(同フェスで「学芸会レーベル」を上演した)柿食う客の中屋敷さんがそこにすかさず突っ込みを入れている。りたーんずについて書いたレビュー http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20090524/p1