『寝台特急“君のいるところ”号』
中野成樹(POOL-5)+フランケンズwith friends featuring劇団EnTRoPy
●原作=T・ワイルダー「特急寝台列車ハヤワサ号」
●構成&演出=中野成樹(POOL-5)
●出演=村上聡一/福田毅/野島真理/石橋志保/劇団EnTRoPy/斎藤範子/岩本えり
会場は例によって横浜のSTスポット。木曜日に見に行く。
ラップによるイントロからスタートする55分。ワイルダーの『わが町』そっくりな作品で、原作は同じワイルダーの『わが町』に対して習作的な位置になるらしい。
同じ寝台特急に乗り合わせた人々の、それぞれの心境が、ニューヨークからシカゴへと向かう鉄道の背景やそれをとりまく世界との関わりを通じて描かれていくというオムニバス的な構成で、フランケンズの手に掛かるとコンセプトアルバムを一枚通して聞きましたという趣だ。
ひとつ思ったのは、いかにも翻訳劇的な演技のスタイルについて。そのことだけ論じておきたい。
途中で、役者がとちって相手が「やってらんない」という感じで素に戻って劇が中断するという場面がある*1。
そこで、演技に質の転換が起きるのだけど、「素」の演技というのが、あからさまに芝居くさいものだ。何か、「素」になってる迫真性とか臨場感とかを醸し出すことを初めから放棄しているようで、演技が演技として投げ出されているので、あたかも、それが下手とか臭いとかいう判断にもたらされる以前の場で完結している。
ポツドールがやろうとしていることは、「演技らしさ」の感覚を見た目の上で消去する「再現的演技」のシミュレーション的徹底だとしたら、中野成樹とフランケンズがやろうとしていることは、「演技は演技でしかない」ことのシミュレーション的徹底ではないだろうか*2。
その点で、ポツドールの舞台がどこまでも「活動写真」へと接近する詐術において成立しているとしたら、中野成樹とフランケンズの舞台は、生きた彫像による造形的構成として成立している、と言えるかもしれない。
クライストに「マリオネット芝居について」というエッセイがあって、ベケットが自作を演出したときに役者に読ませたのだそうだけど、そこでは、人形劇に出てくる自意識の無い人形の機械的な運動こそが演技の理想だという話が出てくる。役者が、演技の中に、自分の演技のうまさをひけらかすような自意識を滲ませたとき、すべてが台無しになるという話しだ。
ポツドールの場合は、演技の自意識を生み出させる観客への志向性を閉じる回路を舞台上の擬似共同性の上に成り立つテンションで隠しているような感じがするわけだけど、フランケンズの場合、どこまでも単なる演技のうすっぺらさへと役者の自意識を還元してしまうような仕事をしているような気がする。
けれども、フランケンズの場合、そこで、演技が演技でしか無いことに固有の、演技そのものの様式性、造形性が、前面に浮上してくる。
寝台車の客席はパイプ椅子を並べただけだし、役者は舞台奥につられた暗幕の裾を持ち上げて舞台に出入りする。そんな仕方で、むき出しにされたそっけない装置と同じような水準に、それぞれの演技はそっけなく置かれているようである。それでいて、その配置には、しっかりとした音楽的リズムが宿っている。そこでは、演劇が、演劇として造形され、完結する。
今回は、舞台を覆っていた暗幕が全部開くと、のし袋みたいな水引の模様が描かれていて、正面には「ご来場ありがとうございます」なんて書かれていた。
前回、フランケンズについて書いていたとき念頭にあったのは実はベンヤミンの『ドイツ悲劇(悲哀劇)の根源』だった。今回も、たとえば天使役だった女優が天使の扮装を脱いで「夜明け」に扮して、「くるり」の曲の歌詞を読み上げているところなんかを見ながら、ベンヤミンの本のことを思い出していた。
寓意を託された役を演じるという設定は、原作の問題なのかもしれないけれど、今回の舞台が、寓意にみちた象徴によるモザイク画のようにして出来上がっている舞台であることは間違いない。まあ、中野さんはそんなことぜんぜん考えていないかもしれないけれど、バロックによって現代を照射するというベンヤミンの顰に倣った注釈をつけてみるべき舞台なのかもしれない。
フランケンズの舞台の上には、私たちの生活を彩っているさまざまな記号が、現実らしさのイリュージョンの中に回収されるのではないしかたで、固有の存在を得ている。それは、言葉であり、身振りであり、文字である。それぞれが、同等の権利で、舞台を飾る断片として配置されている。その配置は、我々の生活が様々に断片化されたものとしてあるのと同じ仕方で、飛散している。
婚約者の家族に会うために旅行している途中で心臓発作で死んでしまった女性が、天国に召されるのをためらって、天使に異議を申し立てる場面が一つのクライマックスであって、そこでは、なつかしの故郷への感謝の念が吐露されたりする。陳腐といえばきわめて陳腐な場面であって、粗末な白布をまとって蛍光灯みたいな輪をつけた天使役の女優は、わざわざ天使の言葉を観客には聞かせないように相手に耳打ちする演技をしてみせる*3。
岡崎京子のある短編で、感傷的になって海に来た少女が「私って陳腐なんだわ」とひとりごちる場面がある。そのように、私たちの生活の、もっとも劇的な場面が、しばしばきわめて陳腐な身振りによってしかあらわされないことをそのまま肯定し受け入れる姿勢が、中野成樹による舞台をとても潔いものにしているように、私には思われる。そこにこそ演劇の効用があるといって良い、のだろうか。