ボクロール

8月28日(日)15:00からの、最後の公演を見た。

「chocolate」振付・出演/矢内原美邦 出演/佐川智香
「ボクデスの『メガネデス!』」作・演出・出演/小浜正寛 映像/高橋啓
ゲスト出演=Luke George

ニブロールは必見だっていうから見に来たけど、これのどこが面白いんですか?」って知人に言われて、ちょっと困ってしまった。

この、ちょっと困ってしまったというところから、話をはじめなくてはいけない。

困ってしまった理由はいくつかあって、第一に、「これはニブロールの本公演じゃなかったし、ゲストも多かったし、だからニブロールの魅力がダイレクトに伝わるものじゃなかったんだよ」って簡単に言えたならそれで何も困ることは無かったのだけど、ニブロールの本公演では無いにもかかわらず、ニブロールの「何たるか」が凝縮されて色濃く出た企画だった、と言わなければならないようにも思うのだ。

ニブロールの良い面と、あまり良くないかもしれない面が、原液のままごった煮で提示されたような舞台だったような気もする。少なくとも私には、そういう風に見えた。

だから、初めて見た人に、この日の舞台を見た経験から、ニブロールの魅力を語ろうとすることは、慎重かつ忍耐を必要とする還元作業を対話の中で行わなければならないはずだった。

その、思考的体力と繊細さを要する還元作業が今完遂できるとも思えないのだけど、自分のなかの見取り図くらいは描いておきたい。


振付ということに関しては、たとえばUFOをめぐる映像(「ノート」で使われたもの)が使われた最初の作品「チョコレート」では、途中、たとえば、矢内原さんが床に手をつけてひらひらさせる動きから、二人がからんでダイナミックに動いていく展開があって(もうきちんと記憶に再生できないのだけれど、記憶の中でその後の動きが手のひらのひらひらの内に結晶してしまっているみたいだ)、ほとんどありえないレベルで細部の微細な動きと身体の移動を伴う動きがひとつのモチーフのなかに縦横に様々な運動を交錯させるような仕方で一貫している。

そういう繊細さが、バラエティーショーの喧騒の中に埋もれてしまった感じがあって、初めて見る人は戸惑うばかりだったのではないかとも思う。

前にも、歌に振付ける時の矢内原振付の魅力について書いたことがあったけれど、今回の椎名林檎(だと思う)の歌に寄り添うデュオも、素敵で(それがどう素敵なのか今細部の描写から解きほぐすだけの余裕が無いのが残念でならないけれども)大雑把に言えば、歌のメロディーやリズムとはまったく別の次元からダンスが歌に寄り添っているのに、歌の流れに様々なアクセントを付け加えるように、歌が持っていた叙情的な質が逆に増幅されるような運動形態がくきくきとメロディーの要所要所にあてがわれていって、音楽の情緒的成分がダンスを粉飾するというようなこととはまったく別の次元において、視覚世界と聴覚世界がどこまでも平行するなか、そこに諸世界を貫通する本質が顕現してくるような造形が舞台に現れてくるのだった。なんだか大げさな言い方になってしまったな。

「ノート」の映像の使いまわしについては、去年の「チョコレート」初演の時はどうだったのだろうか。モチーフ的に重なるものがあるのかも知れないけど、大きな作品向けの映像をデュオ作品に使うのは、やっぱり無理があったように思った。

ダンス作品に映像を使う理由が、矢内原さんのなかでどうなっているのか、ちょっと良くわからないのだけど、あのデュオ作品なら、映像なしの方が逆に良かったのではないかという気がしないでもない。

ニブロールの別働ユニットoff-nibrollも映像の高橋啓祐さんと矢内原美邦さんのコンビという線はそのままだったけど、一回、映像抜きの作品をやってみて欲しいという気もする。

そういう所で、振付の良さと映像の良さというニブロールの魅力が、それぞれ逆に見えにくい仕方で舞台にあげられていたように思う。



僕が見た日、演目は次のような感じだった(順番はちょっと違ったかもしれない)。

・イントロの映像(「ノート」の使いまわし)
・その映像にかぶる形での矢内原美邦振付佐川智香共演デュオ作品「chocolate」
*「メキシコ」の、ナンセンスコントみたいなもの*1
椎名林檎(だと思う)の歌に振付けた、チョコレートと同じ二人のデュオの小品
*キノコ舞踊団の伊藤千枝さんがギター奏者(素人っぽい演奏)の伴奏でボガンボスの「トンネル抜けて」を歌うデュオ*2
・Luke George氏によるデュオ作品(ニブロールにも出ていた日本人男性パフォーマーが共演)。
ニブロールの映像担当高橋さんとボクデス小浜さんのコラボレーション作品「メガネデス」*3
・エンディングのカーテンコール的パフォーマンス。皆で踊る。

まさにバラエティーショーだった*4

演目は日によってゲストが替わるということだ(多分*印の演目が日替わり)。



全体を通して、ある種の学芸会的な雰囲気みたいなものがかもし出されていると思った。それは多分、マーケットの原理を廃したところで、お客さんを安心させる過剰なサービスみたいなものは無くて、出演者同士の関係を観客にも同等なものとして求めるような姿勢がそこに通低しているからではないか、とも思った。

そういうある種の共同性のなかに、雑多な要素を投げ込んで、結果として出てくるなにか新しいものを作品としてまとめるということを行っているのがニブロールだと言えるとしたら、今回のボクロールにも、極めてニブロール的なものが現れていても不思議ではない。

その、舞台作品としてまとめる仕方に、舞台作品についての了解というのが理念として潜んでいるはずで、今回のバラエティーショーの、最後を飾ったカーテンコール的パフォーマンスのある種の緩さみたいなものは、ニブロールの作品の構成原理と通低する何かだった気もする。あそこで観客を巻き込んで客席と舞台が一体となって締めくくろうとした発想は、多分、客席と舞台の間で更新されるべき共同性を逆に裏切って、偽りの、うわべの、親和性のイメージの中に回収してしまうという身振りではなかったかと思う。そして、それは、ニブロールの作品の中に常に排除されずに在った要素なのではないかとも思う。このあたりに、ニブロールの可能性もあったし、問題点もあったということではないかと思う。

さて、困ってしまった理由はいくつかある、といいながら、その第一について明示しただけで他の理由を言わないで来たけれど、もうひとつの理由は、今回の公演が実現する最初のきっかけは、私が矢内原さんに今回のフェスティバル参加のオファーをしたので、ある意味当事者であって、そして、私の最初の目論見は「ニブロール小品集」といったものができないか、ということだった。

紆余曲折あって今回の形になったのだけれど、結果として、矢内原美邦振付の、あるいは、ニブロールの、魅力が際立つような公演にはならなかったかもしれず、問題点が露呈する面が多かったたのかもしれないが、私としては、それもまた舞台作家と向き合うひとつの機会として歓迎すべきものだっただろうと考える。

*1:「メキシコ」については、まあ、へなちょこもあそこまでやれば偉いという風に思わないでもなかった。バナナでジャグリングするのかとおもったらひろってはなげひろっては投げしているだけだったのも、何の芸も無いってことに開き直る仕方としては上等なものだとおもった。いや、芸がなくても視覚的に起きていることはそんなにジャグリングとは違わないわけで、妙な視覚的享楽があって、それが芸ではなくてナンセンスに還元されるのは感動的ですらあるとか言ったら言い過ぎか。でも、妙に感動したよ。

*2:それなりに有名な振付家が歌っているってことを知らないひとには、あの歌はほとんど感銘を与えないパフォーマンスだった気もする

*3:メガデス」については、列車の車掌というキャラクターが演じ続けているという物語的な一貫性みたいなものがゆるく下敷きにされていて、いつもの小ネタみたいなものが数珠繋ぎされている感じ。初めに披露されたネタが後半映像と共に繰り返されていたりもして、なるほどね、と思わされる構成の妙とかもあったりもした。映像とあっているようなずれているようなへなちょこパフォーマンスにおいてこそあらわれてくる身体の質が小浜さん独特のキャラクターに体現されているところが魅力といえば魅力なんだろうけれど、こんなんで良いのかーってニートの人を絶望させるような舞台でもあるのではないかとか思わないでもない。

*4:Luke George氏と、キノコの伊藤さんを除けば、出演しているのは小浜さんも含めてニブロールの舞台に出たことのあるパフォーマーだったと思う。ボクロールの公演を好意的に見たレビューとしてコンパクトにまとめた記事がhttp://kiiroiseiryoku.seesaa.net/article/6312181.htmlにあって、これは僕が見たのとは他の日の公演のレポートなんだけど、僕が見た日は矢内原さんは叫ばなかった