チェルフィッチュの『労苦の終わり』について(後編−第3稿−)

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041107#p1(前編)
http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041108#p1(中篇)
に続く。いくつかの、散漫な、ディテールの話。

○ディテールその1。「バンザイ!」
この作品は、結婚祝いの飲み会(男のみの旧友同士での)を一人だけ早く抜けた若者*1が、その飲み会の話をするところから始まる。ま、早引けしたってことで、伝聞と実体験が混ざり合う語りになる、その辺が「語りと再現的演技の間の揺れ動き」への布石になってたりするあたり巧妙だ。

そこで、結婚祝いでテンション高くなって「ばんざーい」って感じで盛り上がったんですけど、みたいな語りの所で、バンザイの仕草をする。その仕草の反復が、チェルフィッチュ独特の身体技法へとさりげなく導入していて、語りから再現的演技への移行が自ずとなされるわけだ。

その、バンザイの仕草が、最後に別居中の夫として突然登場するトチアキさんの演技の中で繰り返される。まあ、いろいろなことをそこから論ずることはできそうだけど、ある種の対応や連関を示唆しながら円環が閉じるようにして作品は終わるわけである。いや、ウロボロス的な循環?

ともかく、結婚間際の人の話が離婚しそうな人の話で終わるってわけで、螺旋状というべきなのかもしれないですが、それが、あくまで、身振り言語の同一性によってつながれるわけである。たとえば、バンザイっていった仕草に意味を与えている身振り言語の同一性が、何を基盤として成り立っているかを考えれば、この円環だか螺旋だか渦巻きだかに巻き込まれているものは、巻き込んでいる作品の根底もまた支えている豊穣な「身体性」そのものにまつわるテーマだと言ってしまっても大げさではないだろう。

○その2。結婚式のスピーチでオヤジギャグ的説教が披露される話
それで、作中後半で伝聞として色々な場面に繰り返し言及され語り直される話があって、それは、結婚式の披露宴で夫婦喧嘩を円く治める秘訣を説いたという「江戸時代に偉いお坊さんが作った歌」の話だ。
まあ、その作中でいろいろに「伝承」されてる話の原話は、その元ネタがどんなものなのか知らないが、「仲がギスギスしたら寝れば良い」ってオヤジギャグでしかないのだけれど、それが、「短歌」とか「俳句」とか、実際はどっちでもないのに、そういうものとして言及されるのが、ちょっとした教養をくすぐるギャグになりつつ、さりげなく「伝聞の不確かさ」を主題化してしまっているのも巧みであり、このエピソードが、いろいろな話の流れの中で言及されながら、語り手や語られている事柄が、さまざまな層を介して「リンク」しあっていることを示唆することにも繋がっていて、単純な思いつきのような仕方で作中に織り込まれながら、実は作品の主題と深いところでつながっているのであり、そして一見散漫な複線的語りの進行の間を縫い合わせる役目も果たしているという、見事な仕掛けになっている。
さらに、劇中で繰り返し語られる間に、それぞれの語り手や聞き手がこの「色っぽい教訓歌」みたいなものを、様々に受け止め、解釈し、それを面白がったり、あきれたり、効用を検討してみたりもしていて、同じ逸話でも受容の仕方は様々だということすら同時に描いているのであって、それがまた「生きる態度」の多様性の提示にもなっている。それが、一見単なる世間話の形でさりげなく造形されているというのも、恐ろしいほどすばらしい。
それは、いわば鏡面として、現実社会で際限なくくりかえされる「語り」の場面がどれほど複雑に成り立っているものかを照らし出してもいる。

○その3。夢の場面の話
夢をみているのは私なのに、というか、私が私に夢を見せているのに、夢の中には他人が他人として出てきたりする。自分では、夢の成り行きを左右できなかったりする。というわけで、夢こそが、私が、私の知覚のなかで、私ならぬものを構成している、という、「私が世界に開かれている仕方」を如実に反映しているとか、ライプニッツ*2なんかに言及しながら語ることはいくらでもできるだろう。

同居していた「先輩」の別居話を聞く破目になって、立場上話を切り上げて「寝る」こともできず、徹夜状態で婚約者との待ち合わせに出かけなくちゃいけなくなった地下鉄の中で、結婚したら住む予定の新居を探しに行くこの女の子はうっかり寝てしまって、そこで見た夢が語られる場面が、この作品の、ひとつのクライマックスをなしている。

待ち合わせの駅についたときには、夢の中で、降りなくちゃ、と思いながら、このまま寝続けたい、ともおもう。その葛藤の自問自答が、寝ている自分の座席の前に、吊り革を握って立っている婚約者との問答として展開される。だがそこで、「夢に出てきた婚約者」は、ほんとの婚約者とは別の知らない男だった、と語られる。そして、その人物が舞台に登場して再現的場面のように演じられてゆく。その、「夢に出てきた婚約者」の役を演じるのは、主に「二股を解消して結婚する男」の「役」を演じ続けてきたとみなせる役者なんだけど、夢の体験を語る「結婚する女の子」役の役者による語りの中でなされる再帰的=自己言及的なナレーションにおいて「いま夢に出てきた婚約者を演じているひとは、婚約者役を演じてきたけど、夢の中の場面では別の人の役をやっています」的な注釈がなされる。

結局、引き伸ばされた夢の時間での葛藤劇は、一瞬「車両を降りる意志」が優位に立つことで幕を閉じ、ぎりぎり発車まぎわに飛び降りた女の子と結婚予定の恋人との待ち合わせの場面が、そのまま「夢の中にでてきた他人」を演じていた役者との間で進行してゆくことになり、そこで、その女の子が、「心の底ではあんまり結婚したいと思っていないのかもしれない」と泣きじゃくったことが、結婚相手の男の語りとして展開されてゆくことになる。

この場面、駅ビルのエスカレータを上がったところにある不動産屋に行くというディテールも、絶妙だ。エスカレーターに並んで上っていくときの、運ばれるがままの待機の時間、自分は動かないが、視界は移動していく、その感覚が語りの中で喚起されてゆくが、このエスカレーターで斜めに上がってゆくイメージは、目立たないアクセントとして、舞台に進行しつつあることと響きあい、浮かび上がらせている。

恋人とすれ違ってしまうかもしれない瞬間に、夢のなかで「いま降りなきゃだめだ」と告げる人物が、恋人だということになっているけど顔とかは別人だ、と想定された場面を、恋人役の役者が演じるということ。それは、描かれる出来事の中の様々な水準のゆらぎが、舞台造形のゆらぎとして進行することだ。夢の中での取り違えは、心理的解釈を唆してもいるだろうが、その手前で、歴然と語られている出来事と、それを語ろうとする舞台造形との関わりを考えてみるべきだろう。『労苦の終わり』を成功させているのは、造形と主題の照応であることを見出そうとするならば。

語りと演技の間のゆらぎ、役柄と演者の間のゆらぎは、観客に対しても、舞台を見、台詞を聞き取ろうとして定位する場所を絶えず更新しなければならないように強いるものとしてある。舞台上の出来事と、語られる出来事の間の齟齬がきわまる瞬間に、観客もまた、演者達と共に、舞台上で描かれる人物と共に、意識の水準の移行を遂行しなければならない。

そこで、語られている出来事はどこまでも舞台から遠ざかる夢のようなものとなってゆらぎ、舞台は、どこまでも客席と地続きなものとしてゆるぎなく現実である。

この一連のクライマックスにおいて、語りのゆらぎが、夢の漠然とした意識のゆらぎを描写しながら、夢独特の「リアリティ」を演劇的造形として具現化することに成功し、それが、ゆらめく様々な可能性がひとつの現実に収束してゆく人生の分かれ目に独特の「リアリティ」へと繋げられている。

この一連の舞台の流れを、流れつつある人生の決定的な瞬間を描くことに成功したものと評価することができるだろう。

*1:若者っていうのもなんだかちょっとぴったりこない感じけど、他に良い言葉も見つからないので。演じていたのはid:queequegさん、20代女性を指して女の子という言い方は違和感ないんだけどねえ。

*2:とりあえず、ライプニッツについての入門書としてISBN:4140093048おく。ライプニッツのサイトhttp://www.fuchu.or.jp/~d-logic/jp/jap.htmlがあった。