motto初期型『ホルモン』雑感/ダンスシアター度、ダンス度++

東京ダンスタワーの企画で上演されたmotto初期型の上演作品『ホルモン』を見てきた。東京ダンスタワーは、東京スカイツリーが建設中の町で毎月行われている小さなダンスイベント。初期型+ゲスト出演者ということでmotto初期型という名義なのかな。
明後日本番?まぢで??? | 東京ダンスタワー

以下、見ながら考えたことをメモする。

全編、男性ダンサーが全裸で出ていて、着衣の女性パフォーマーが局部を隠すのに協力する。女性も直接男性パフォーマーの陰部を素手で覆って隠すのだ。そのままリフトしたり床を転がったりする。なんか、アクロバティックなのがコミカルな感じ*1

冒頭のパートでは、女性三人のパフォーマーが、他愛無い話をしている。多分、ある程度台詞が決まっているけど、ただしゃべっている感じで、痴漢の話とかちょっとセクシャルな話もするけど、世間話として流されていく感じ。

初期型主宰のカワムラさんは「パフォーマンスグループ」と言っていて、あえてダンスとは言わなかった。ダンスパフォーマンスではあるわけだけど、これは何だろうな。

ところでモモンガコンプレックスの白神ももこさんのりたーんず参加作品の評をしたときに、ダンスではなくダンスシアターと考えるべきだ、と論じた。

身体の形において、向かい合ったりすれ違ったりする仕方において、あるいは言葉の形を取って向かい合ったりすれ違ったりする仕方において、ある種のドラマが造形されているとき、それはダンスシアターと呼ばれる。

ダンスシアターにおいては、身体運動自体の審美的な洗練は芸術的な達成の目標にはならない。それぞれの身体が隠し持っている動きのドラマの可能性を、どのような仕方で引き出すか、引き出された動きのドラマをどのように構成するのか、それが問題となる。
『すご、くない』 - 白鳥のめがね

これで別にダンスシアターの定義をしたつもりはない。そんな定義は不可能だろうとおもう。ここであえてダンスとダンスシアターを図式的に区分してみたのは、ある批評家が『すご、くない』について、ダンスの技術が無い人がやっているからダンスとして評価できない、みたいなことを書いていたので、それは誤ったジャンル概念の適用だろうとおもったという理由がある。

それと、4月に短期留学で来日していた東欧出身の人とディープラッツに出かけたときに、ポタライブ関連の人と一緒になったので、ポタライブの話になったのだけど、留学生がポタライブの説明を聞いて「それはダンス作品というよりダンスシアターでしょ」ということを(英語で)言っていたのが印象深かったということもある。別のジャンル概念として流通しているのだな、と改めておもった*2

ダンスシアターといえば、その言葉を広めたのはピナ・バウシュの作品だ*3
このあいだ、ピナ・バウシュの追悼記事を書いたときには、自ずと「振付家」という枠で書いていたのだけど、ダンスの枠を超えた舞台作家として幅広い影響を与えた人というのが、確かに正しい評価かもしれない。

"Her influence extended far beyond the dance world into the theater world, and even movies and the staging of opera," Lewis Segal, former Times dance critic, said Tuesday. "It is limiting to call her a choreographer; she liked the term 'dance theater.' She was important because she thought everything belonged together -- speech, movement, design, commenting on the audience....
Pina Bausch dies at 68; innovative German choreographer - Los Angeles Times

ピナ・バウシュ追悼 - 白鳥のめがね

そんなわけで、ダンスシアターとダンスの違いとかということを考えながら、ある種の全裸バラエティーショーを見ていた。

裸であること、性器を露出していること、そこには意味がある。ある意味、生殖器は究極の記号なので、それを隠すことに意味があるとき、露出することには更に重篤な意味があって、法に触れる行為につながるわけだ。

だから、全裸で踊るということそれ自体が、ダンスをはみ出る行為になる。
今回の舞台では、性的な含意が抹消されるわけではないのだけど、お互いに協力して隠すという場面が持っている意味は、他の情景を描いているのではなく、それ自体に意味があるという点で、やはりこれは、ダンスシアターと呼ぶべき領域の何かなんだろう。

局部を懸命に視界の外に置こうとする極端なアクロバットや馬鹿馬鹿しい共同作業のさまは、さしずめphallus-eccentric*4とでも言うべきかな、とか考えたりした。

最後の方の場面で、全裸の男と着衣の女の二人がカップルとして「おれ、仕事クビになっちゃった」「大丈夫だよ」とか語り合う場面を演じるところがあった。そこでも、わりとナチュラルな会話劇が女性パフォーマーが相手の陰部を隠し続けるという仕方で進んでいて、そこまでいくともはや全裸であることの意味が飽和して変だとも思わなくなって来ている。

特に演技術の高度な訓練も必要なく、身近な他人という設定で演じていればナチュラルにリアリスティックになるような、こういう芝居の位相って、なんなのだろうか。しかも全裸だし。

ここで、作品の意図とかを汲んで評価することはしない。多分、散漫なレビューで全裸の意味がアクロバティックな喜劇が展開するなかで(出演者のそれぞれにとっても、観客にとっても)変容していく様子を見守る試み、とでも言っておけば十分だろう。

さて、最近私は、わりと無造作に「舞台表象」という言葉を使ってきた。これは、舞台に現れる諸要素の複合がある種のシニフィアンとでも言うか、何かを意味したり表示したりするものとしてある、そのあり方を名指すための言葉だ。それは、単なる像には留まらない喚起力を宿している。

ある役者が現れていることが、登場人物が出てきたことを表しているなら、その衣装や照明や装置の効果もあわせて、役者の演技を舞台表象と名指せる。

舞台の展開における諸要素の複合や展開の全体もまた、舞台表象と呼べる。

舞台上で展開する現実の諸作用が、いつかどこかであったことを表しているなら、舞台作品は舞台表象である。

表象はrepresentationの訳語、対義語はpresentationで現前と訳される。
現前は、現れていること、表象は、何かを表していること。

ダンスとダンスシアター、そして演劇との間には、現前と表象の様々な度合いがある。

パフォーマーがその人として現れていることと、パフォーマーが居ることやすることが、何かを表していることの間に、どのような関係があるのか。

今回おもったのは、その現前と表象とを、単純な区分や対立として考えるべきではないのだな、ということだ。

さまざまなケースがあり、単純な区分はできない。むしろ、現前と表象の複合状態を考えるべきなのだろう。
たとえば、役者が誰かということと、その役が何かということが、どちらも観客にあらわであるという状態を考えることができる。

近似的かつ図式的に言って、現前と表象の複合には様々な度合いがある。
リアリズム演劇として、表象の側が勝ることもあれば、素人芝居のように、演じ手その人が前に出る場合もある。その間に、様々な濃度や明度、色合いの違いがある。

そのトーンを、微細に読み取ることが必要なのだろう。そうしないと、カラヴァッジオなどのバロック絵画を「コントラストが強すぎる」といって過小評価するような愚を冒すことになる。

東京ダンスタワーを見るのは二回目。前回見たのは、松島杯というイベントだった。これもなかなかバラエティに富んだ楽しい企画だった。
松島茂杯に寄せて | 東京ダンスタワー

(追記)初期型の以前の公演について言及を注に追加する(7月7日)。
(追記2)以前書いたこのエントリーは関連すると思うのでリンクしとく。
ユーモアとダンスをめぐる諸々の断章 - 白鳥のめがね
(7月8日)

*1:今回の作品は芸術見本市で公開されたものの増補版的性格のものだったようだが、同様の展開は次の上演でも示されていたそうだ。後から知った。初期型『MELEE』 - ダンスの海へ 舞踊評論家・高橋森彦のblog

*2:アメリカとか旅行したときにもそんな風な区別を英語話者から聞いたことがあったような気がする

*3:ピナ・バウシュの様式だけがダンスシアターではないし、ピナ・バウシュが造語した言葉というわけでもないのだが

*4:ファロス排外(極端)主義っつーか、この場限りの造語ですが(笑)