アダチマミ×無所属ペルリ

ダンスがみたい!7の公演、アダチマミ×無所属ペルリ「まな板の泳ぎかた」の8月8日(月)19:30の回、 「アフタートーク*1の担当をした(黄色い勢力さんがレポートしてくれましたhttp://kiiroiseiryoku.seesaa.net/article/5734174.html)。

アダチマミ×無所属ペルリ「トランポリンの上で殴り合い」「まな板の泳ぎかた」
振付・演出・出演/アダチマミ
出演=植松侑子 岸麻奈美 山口由香 照明/奧田賢太

今年一月のディプラッツの「新人シリーズ」で「批評家賞」を受賞して、今回「ダンスがみたい」に出演することになった作品「トランポリンの上で殴り合い」の再演と、受賞後の新作「まな板の泳ぎかた」の二作品を上演した。

「トランポリンの上で殴り合い」はゲネ見学も含めて三回見たのだけど、細部の造りこみ具合がより見えてきて、見る度に面白かった。

ざっと舞台全体の構成を見渡しておくと、4人の女性ダンサーが肌着っぽい衣装を着て登場し、正座した膝に手をつっこんで前後に揺れながら進んだり、そのままの姿勢で足の甲を支点にして膝を持ち上げ、バランスを取ってみたりするシーンが前半にあり、暗転すると洋式便器が置いてあって、その前にひとりのダンサーが正座している。前半のどこかで、お腹を押さえて進んでくる場面もあったので、なんとなく連想を形成するみたいだけど、見ている時にはあまりそういうことは考えなかった。

便器のふたをあけて、そこをのぞきこみ、何をするかと思えば、中から素麺を掬う、というコミカルな場面。それに平行して、何か昔の歌謡曲らしい曲を歌いながら(外に出たら狼ばかりだから誰にも話しかけてはいけません、といった歌詞)壁にもたれたり、倒れこんだり、起き上がって背をかがめ前に進みながら口を押さえつつ同じ歌をもごもごと歌う。
その、口を押さえて進む仕草に他のダンサー二人がユニゾンしていって、背をかがめ片足でバランスを取っていく*2

更に暗転して、最後は、うすぐらいスポットライトのなかに一人一人のダンサーがそれぞれにずれた方向を向きながら前向きに傾き俯いて立っている。それまでの場面とのコントラストも鮮やかで、舞台に配置するバランスも絶妙だと思う。

そこで、倒れこみ、起き上がる振りがひとり、またひとり、と広がっていく。足のあたりから胸まで両手でぱたぱたとはたきながら上がる動きが起き上がる動きと連動して繰り返される。ひとりのダンサーが舞台上手すみをゆっくりと前に歩み、ショーツを直す仕草で暗転して幕。

いかにもダンスらしい振付は排除したところで、様々な身振りをシステマティックに構成していく。ともかく、舞台は比較的淡々とゆっくりしたテンポで進むので、一見なにか様々なパフォーマンスをただ並べているだけのようだけど、良く見てみると、細かな動機が様々に連鎖していったり、意図的に切断された場面と場面がコントラストを際立たせていたりしていて、それぞれの身振りも緻密に設計されていることがわかる。

振付のボキャブラリーは日常の身振りに近い所から拾い上げているが、しかし、それぞれの動きは「日常の身振り」ではなく、ダンスのボキャブラリーになるまで典型化されたものとなっている。
様々に動きの単位を設定しながら、その動きの単位を丹念に織り上げていっている手つきは、むしろ古典的な振付家のものだ。舞台全体を動きの細かな流れを舞台全体の大きな流れとして組み立てようとする振付家的な姿勢が一貫されているところを、高く評価したい。


「まな板の泳ぎかた」では、最初だらだらうろうろしていたダンサーたちが、ふいに両手を旋回させ身体をすばやくターンさせる常套的なダンスの振りを踊り始めるので、おや、と思う。そういう振付の語彙を「トランポリン」では排除していたのにどうして?・・・・と思うと、そういういかにもダンス的な振付のあとに、首筋を掻くような身振りがさしはさまれていったりする。類型化されてしまったいわゆる「ダンス的なもの」を崩していこうという姿勢があるらしいことはわかる。

私はたまたま選評*3に、「既成の動きは、引用として活用されるか、古典的な均整の中に生かされるのでなければ紋切り型(クリシェ)に堕するだろう。」と書いていたのだけど、この点についてアダチさんに聞いてみたところ、やはり引用を意図していたようだ。ダンスについての了解が共有されていることを前提に、「わざわざベタなことやっているんだ」と理解してほしいという計算もあったみたいだし、ある意味、メタダンス的にダンスそのものについてダンスによって問いかけるみたいな意図を読み込めなくも無い(これは珍しいキノコ舞踊団の初期に顕著だった志向ではあるけれど)。

たぶん、大真面目にありがちな振付しちゃっているのが安易だと誤解されかねない危険がこのパートにあったとしたら、逆に、このパートが振付としてしっかり成り立っているからではないかと思う*4

中間のパートでは、虫の声だけを使って、夜の場面のようにゆっくりとした時間が展開していったのだけど、二人のダンサーがズボンをおろして、パンツをみせて登場する。こういうことをしても、黒田育代みたいにダイレクトな性的イメージを展開することはなくて、むしろ硬質な造形の手堅さにおいて観客は解釈の手前で図像に直面させられるような仕方で舞台を見る位置にいざなわれているように思う。さまざまな物語が読み込めるような要素がちりばめられていながら、観客を感情移入させるのではなくて、むしろ、突き放しているようなところがあるように思う。

ラストのパートの変形三点倒立の手前みたいに頭と足でバランスとって折り曲げた体が三角形をなすポーズをする場面で、わざわざ足指をおりまげて指の甲のがわでバランスとろうとしている妙なこだわりにも注目した。これはアフタートークでも聞いてみたけど、身体に負荷をかけるところに生まれる独特の質に興味があるということだった。

たとえば、猫背の姿勢が多用されていることについて聞くと、背筋を伸ばしてばかりのいかにもダンス的な身体のありかたに違和感を覚えるので、「もっと猫背にしてほしい」と稽古のときには言っていた、なんて的確かつ明確な答えがすぐに返ってくる。

ともかく、アダチマミさんは、自分が何を狙い、なにを造るのかについてをはっきりと自覚する作家的意志をしっかりもっている人だと思った。そして、アダチさんが狙っている方向性は、まったく斬新な発想とはいえないとしても、オリジナリティのあるものだと思う。

2000年に上京したというアダチさんは、それ以前の東京を中心としたダンスの動向には接点がないけれど、お茶の水女子大で学ぶなかで、舞踊史の知識は得ているだろうし、幼少のころからバレエを習ったなかで、身体で覚えこんだ舞踊史的な感覚というものがあるのだろうと思う。このアダチさんの舞踊史的な位置に、すでにユニークさがあるようにも思う。

動きのフォルムを明確に打ち出すという振付スタイルは、様々な振付様式との舞踊史的葛藤を全面的に経験しなければ、ダンスに厳しい眼をむけてきた観客に対する説得力を持たないかもしれない。

(8/19加筆訂正)

*1:アフタートーク和製英語で、英語圏ではpost peformance talkというから、ポスト・パフォーマンス・トークと言った方が良いという意見もあるようです。アフターケアは、aftercareで立派な英単語。afterwordは、あとがき、という意味になる。だから、英語の文法としてaftertalk がそんなにひどく意味不明とも言えないような気もする。ポスト・・・・では長すぎるし、アフタートークの場合、和製英語上等!でいいんじゃないでしょうか。

*2:選評 http://www.geocities.jp/butohart/dipracrit1.htm の舞台写真で撮影されているシーン。

*3:注1でも引用したこれ↑。

*4:ジョン・ゾーンの『ネイキッドシティ』とか、あるいはシュニトケの曲みたいに、様々な様式をおりまぜれば、「引用の織物」に他ならないことが明らかなものになるかもしれない。これらの作曲家の場合、様式の引用が引用であることを明示する指標は、それぞれの部分の「断片性」を強調するところにあったと言えるとしたら、「まないた」では、その断片性に欠けるところが「引用」として認識されない理由だったかもしれない。しかし、重さの無い音だけを素材にした音楽では、演奏においても比較的簡単に「転調」とか「切片と切片の継ぎ合わせ」が可能だけれど、身体という加速度と重心にまといつかれる物を媒体としたダンス作品では、音楽のようには引用はできないだろうから、単純な類比は許されないだろうが