様々な終わりが巻き込まれてゆく始まり

2004年9月上旬。私は、房総半島の突端辺り、東京湾が太平洋へと開いている近くの浜辺を、幾人かの知人と歩いていた。

遠くに台風が北上しているという話だったが、その日、内房のあたりは良い天気だった。

浜辺から、桟橋が伸びていた。なにより釣りが好きな先生に尋ねると、釣りの他には用途が思いつかないと答えが返ってくる、そんな桟橋だった。浅瀬の底が見える辺りまでは木造の橋が渡されていて、その先の水深が深くなってゆくあたりからコンクリート突堤が真直ぐに沖へと延びているのだった。

海岸には、いろいろなものが打ち上げられていて、狸のような熊の子どものような死骸を通り過ぎたあとで、一行は、桟橋の手前にさしかかった。私は桟橋の先まで行ってみたかった。申し合わせたのでもなく、一行は桟橋を先へ先へと渡っていった。

台風の影響か、その浜辺ではかつてないほど高い波が寄せていたのだと、釣りをしに何度もそこに来たことのある先生は、いささか興奮した口調で言った。

サーファーが何人かサーフィンしている。その様子を桟橋で、真横から見ていると、目が合ったりする。ちょっと気まずいような奇妙な光景だ。

数十メートル歩いた先端あたりに一同がさしかかったころ、急に大きな波が来て、みんな靴やズボンをぬらしてしまった。あわて気味に、歓声をあげたりしながら、みんなで岸に引き換えしたけれど、それほど危険というわけでもなかった。

波は、一点において見れば、上下運動であって、桟橋の片端を覗き込みながら、私は、波のうねりがゆったりと上下する様子を見ていた。

旅行で滝つぼなどを見に行くことがあったりすると、飽きずに水面の微細な変化を眺めたりしてしまう。

海水は、さまざまなミネラルや養分が溶け込んでいるだけあって、淡水よりも粘り気がつよいものなのだということに、いまさらながら気がついたりする。

淡水という言葉の字義通りの意味に、こうして書き込んでいて初めて気がついた。

(初出「あったことがこだまするのをふつつかに」/2010年3月15日改稿の上再掲)