DANCE FILM VARIATION(G)雑感+

ダンストリエンナーレ トーキョー2009の関連企画として、ダンスの記録映像などが上映されるというので出かけてみた。
DANCE FILM VARIATION

見たのは次のプログラム。
ポストモダンダンス
知人が日記に書いていたので、今日一日しか上映しないって限定感につられて、あわてて駆けつけた。

イヴォンヌ・レイナーって、ポスト・モダンダンス系では一番縁遠いというか良く知らないんだけど、武藤大祐さんが『トリオA』にこだわっていたのを読んだことがあったので、この機会に見ておこうと思った。そういうものもあったのかと回顧的に整理したという以上の感慨はなかったけど、アメリカのモダンダンス史における稽古場の系譜は日本とはまったくちがう厚みがあるのだろうし、そこを考えないとダンス史の視野は広がらないよな、と思ったりした。

だいたい、出てくるどのフィルムでも、ニューヨークかどこかしらないけど、ちょっと古そうな煉瓦作りっぽいビルの中、窓があるような広い部屋でリハーサルしてたりする。そういう空間感覚、都市の構造とダンスとの関わりを考えておかないといけない。ダンスはテリトリー(領土)と密接な関わりがある。脱領土化とか再領土化とかいうタームを、大事に使いたいものだと思う。ヒントはいろいろあるはずなので。

というわけで、イヴォンヌ・レイナーは縁遠い人ということを確認した。

メレディス・モンクは、ちょっと浮いているような気がした。気のせい?モンクはモンクで私は好きですが、ポスト・モダンダンスの人という認識はない*1。ほかに入れるプログラムが無いけど見せたかったとか、そういうことだろうか。

ルシンダ・チャイルズについては、もともとあまり興味がなく好きでもなかったけど、今回、興味が持てずあまり好きではないということを確認した。なんか、リハーサルしてるときの、偉そうな気取った感じとか、好きになれません。

トリシャ・ブラウンは前から好きだったけど、あらためて、好きだなあと思った。
リンク先のリストに載ってないようだけど、ダンスについての経歴とか思考とか何かそう言うことを語りながらリハーサル室かどこかで、カンパニーのダンサーがちらほら入ってくる場所でカジュアルな感じで踊っている様子もチャーミングだった。

何かの公演を舞台袖から撮っているモノクロ映像も1997年のものだそうだけど、面白かった。舞台袖から見えるダンス公演っていうのはシンプルなアイデアで画期的でもないかもしれないけど、でも、客席から見えないシェイプっていうのは、野外でのダンス活動もしていたトリシャ・ブラウンの経歴を考えると、あれこれ興味深い視点だ。終わったあとの暖かい拍手も印象的。こういう公演にこういう拍手が返ってくるとは、日本とは、客の厚みがちがうんだな、と思い、ちょっと寂しい気分に。

こういう断片的な映像記録がダンスとしてみてとても面白いってことを経験して改めて思うのは、どこからどう切っても面白いものがdanceなんだろうな、という風なことだ。

dramaは、切り取ってしまうと変質する(別のdramaになる)が、danceは、少なくとも外から見ている限りでは、どこをどう切り取ってもdanceである。今はそう思う。

というわけで、自分にとっては、一から十まで、いままで思ってきたことを確認するだけの作業に終わった上映会ではあった。まあ、復習というのも必要か。

(追記)ダンス批評家の武藤さんが解説してくれていた。いろいろ参考になる。
ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Gプログラム:ポストモダンダンス - dm_on_web/日記(ダ)
『Shot Backstage-For M.G.:The Film』について、武藤さんは「直フツーの(お父さんが撮った運動会みたいな)ホームヴィデオにしか見えない。」と言ってるのが面白かった。
いろいろ趣味の相違の問題かもしれないけど、それを言ったらジョナス・メカスの映画だってホームムービーみたいなもんだよなってことになるし、とか思った。
適当に撮ってる風なある種の視野の狭さに独特の臨場感があって、最後に入る舞台袖スタッフの誰かの歓声とかがほほえましい。ということをわりと自分は肯定的に受け取れたのだけど、何でなんだろうか。

*1:モンクをポスト・モダンダンスにいれるくらい括りを緩めるんなら、ピナバウシュもフォーサイスも日本の舞踏もポスト・モダンダンスというべきじゃないかという気がする・・・(以下追記)モンクはジャドソン教会派の連中と近いところで踊ってたという話だ。知らなかった。なので、ここまで言うのは言いすぎだったなと反省。HIRONOBU OIKAWA: ジャドソン・チャーチのメンバーたち