東京即興許可局(X3)

「東京即興許可局東京即興許可局東京即興許可局」

8月28日(日)午後8時から荻窪GOODMANにて
http://apaches.hoops.jp/goodman (公式サイトではないようだ)
出演:鎌田雄一・椎名利恵子・末成町子・若尾伊佐子

4人のパフォーマーが参加して、一人抜けた3人ずつ、20分ばかりの即興セッションを4回行うという企画。すべてのセッションが全くの無音で行われた*1


ダンサーが常に空間の座標を任意のものとして設定しなおせるとしたら、ダンサーで無い人は身体の軸が日常的な前後左右の秩序から逸脱できないもので、ダンスとパフォーマンスの違いをそこに求めることも便宜的には許されるかもしれない。

そういう意味では、鎌田氏と末成氏は、ダンサーではないパフォーマーとして垂直の杭を舞台に立てていて、その間をダンサーが流動していたと比喩的に言ってもそう間違いではないかもしれない*2

見ている時に、いわゆるダンサーと非ダンサーが共演していることを意識していたら、もっと別の視点で見ながらいろいろ考えていたかもしれない。もしかしたら、「ダンス」だと思って見ていたのが間違いだったかもしれないが、ダンスとして見ていたので、そのように見ながら考えたことを書いておきたい。


即興セッションであるがゆえに、ダンサーが一緒に踊っている他のダンサーをどのように意識するのか、という問題が、更に生々しく浮かび上がってくる。三人による即興であるから、なおさらどこをどのように意識しているのか、という問題はさらに緊密なものとなる。

デュオであるなら、相手は決まっているから、自己の身体意識に沈潜するか、相手を注視するか、あるいは気配に集中するか、ともかく意識の焦点は自ずと定まっていくだろうが、三人となると、その都度、視線をどこに向け、気配への察知をどのような指向性において行うか、絶えず選択を迫られることになる*3

もちろん、即興には付き物の冗長性がつきまとっていて、相手の気配をさぐりながら待機している時間や、同じ動きをとりあえず繰り返しながら、そのモチーフが生み出す動きの端緒を待ち構えている時間が長く続くこともあり、無音であるからこそある種の周期的な、律動的なリズムに頼ってしまう場面も多かったようにも思う。

しかし、そうした互いの位置や関係が安定に落ち着いてしまう隙をついて、互いの関係が破られる絶妙なタイミングに運動の領域が一気に開かれていくような瞬間がいくつかあった。

特に若尾さんは、常に自分が出られる余地を積極的に探すように視線を投げかけていたように思う。最初のセッションのラストあたり若尾さんが、多少腰をかがめた姿勢から、両手を鍵爪のように硬直させながら、ぐぎぐぎと自分の目の前の空間をかきまぜるように、両手を絡ませるように、動いた身振りが、咄嗟に生まれた新しい振付のように新鮮に見えたのが、最大の収穫だった。


グッドマンのフリーペーパーに椎名さんのインタビューが載っていて、そこで椎名さんも参加した「偶然の果実」や「ミラーボールズ」のことが語られていた。今回の企画がどのように立ち上がっているのか知らないけれど、なんとなく「偶然の果実」のセッションにも通じるような企画だったようにも思う。

椎名さんのダンスは、比較的おっとりした、おとなしいもの、というイメージがあって、いままで魅力のツボみたいなものが今ひとつわからないなあと思っていたのだけれど、緩やかな動きの線の稠密さみたいなものに独特の質があるようにも思えてきた。

いや、全く抽象的な言い方になってしまって申し訳ないが、擬音を重ねることによってはその特徴を掬い取れないような、一見目立たないけれど持続する何かがあって、それが今回見え始めた気がした。あらためて、椎名さんのダンスを気長に見ていこうかなという気分になってきたというところ。

(9/3)

*1:ただし、私が見たのは、若尾さんが参加した最初の3セットだけ。おそくなったので、最後のセットは見ないで帰った。

*2:鎌田雄一氏は、グッドマンのマスターだそうだ。末成町子氏はパーカッショニストらしい。この二人がダンスや身体表現に関してどんな経験を持っているのかしらない。たぶん、普段は即興的音楽の領域にいて、身体表現の領域に越境してきたということだと思う。この二人は、踊るというより動くというより、どのようにその場に居るかを探求しているように見えた。今回の企画では、グッドマンのオーナーは、比較的マイペースに自分の動きに集中していた様子。末成さんは、佇んでいる風な時間が多かった。若尾さんについては、次のページにソロ公演の感想を書いたことがある。 http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20050117  椎名利恵子さんは、黒沢美香の弟子筋のダンサー。

*3:3人によるダンスということで、ついついまたまた、3人の組み合わせの可能性ということを考えてしまったりした。その点に関して今回考えたのは、二人が向かい合って関係しあうときに、もう一人が「第三者」として傍観する瞬間があるな、ということだった。そういう論点はちょっと温めておこうかと思う。